colour1-1 橘田正造
2025年04月11日
一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。
colour1-1 地球社会共生学部・元教授
あの時、あの前、あの後――未知のウイルスとの遭遇から5年、船中の当事者に訊く
2020年初頭。突如として、新型コロナウイルスが世界中をパニックに陥れました。日本でその存在が広く知られるようになったのは、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」での集団感染です。最終的に乗客乗員3711人のうち、712人が感染した船の中で、一体何が起こっていたのか。
世界が一変した未曽有の出来事から5年。偶然、船に乗り合わせた青山学院大学・地球社会共生学部の元教授、橘田正造先生に話を訊きました。
――◆――◆――
【ある日、世界が一変!それまでは「コロナのコの字もなかった」】
〈船に乗った1月20日に客室内で撮った写真。その16日後にまさか、あんなことになるなんて全く知らず…。私は意気揚々と「本日横浜を出港し英国船籍の大型客船にて16日間の船旅に出掛けて来ます」とFacebookに綴っていました〉
――まずは、ダイヤモンド・プリンセス号に乗船したきっかけを教えてください。
最大の理由は、2020年は結婚40周年だったからです。伏線は前年に別のクルーズ船で日本1周をしていたので、その良さを知った家内が「もう1回乗りたい。今度は海外版で」と言うので、ダイヤモンド・プリンセスの東南アジア周遊の旅に出ました。
船に乗ったのは、私の誕生日直前の1月20日です。横浜で乗って、横浜に帰ってきました。最初に止まったのが鹿児島。それ以降は香港→ベトナムのダナン→同国のハロン湾→台湾→沖縄→横浜の順番です。
〈横浜に帰ってくる遥か前の華やかな船内の雰囲気〉
――コロナの感染拡大が広がる以前、船内はどんな雰囲気でしたか?
最初の頃はもう和気あいあいです。1日中行動は自由なんですよ。部屋にいてもいいし、レストランに行ってもいいし。船が大きいから、あちこちにレストランやバーがあるんだね。だからどこで食べても飲んでもいい。夜は希望すれば、着席のディナーなんです。そのディナーのテーブルで、連日おしゃれなご家族と会話を楽しんでいました。
カジノ、映画上映、毎晩演目が変わる大劇場、プール、温泉もありました。それからDUTY FREE SHOPも。洋服や宝石など何から何までありました。
――乗船客の年齢層は?
リタイアした人達が多いですね。中高年のご夫婦。中には1人旅の人や、社会人のお孫さんがおじいちゃん・おばあちゃんと一緒にとかも。若者はほとんどいなかったです。
――外国人の割合は?
日本発で寄港先も東南アジアなので、日本人が7割くらいだったかと。あとは日本へ観光に来ていた香港の人や中国の人や台湾の人が、帰りに鹿児島に寄って、香港で降りていくとかね。欧米人もいたけど、そんなに数はいなかったです。
〈1月22日、高2の秋(1965年)に修学旅行で訪れて以来、何と55年ぶりに訪れた鹿児島で、71歳の誕生日を過ごしました。市内の西郷隆盛の生誕の地や、維新ふるさと館を訪れた後、JR九州の特急「たまて箱」で指宿の砂風呂を体験し、夕方に帰船しました〉
――楽しい船旅の最中、本当に突如として未知のウイルスが現れたわけですよね。
1月25日に香港で降りた人が、数日後にコロナに感染したと分かったらしいです。我々はベトナムに行っていて、知らないうちに、東京で大変な騒動になっていました。情報の拡散が遅れたのは、中国の河北省の省政府が黙っていたし、北京政府も隠蔽していたから。誰もそんな事実を知らなかったわけです。
河北省の病院のある先生はSNSで情報を出したんですが、その先生は逮捕された後、死んでしまったんです。「海外発信を禁じていた情報を勝手に出した」という理由で逮捕されて、もうその時彼は病院でコロナの患者を扱い、感染していたんですよね。結局、監獄の中で亡くなりました。でもそんな事実は当時、外部の我々は誰も知らなかったからね。コロナのコの字もなかったです。
〈横浜に帰港後の2月9日の朝に初めて新聞が配られました。自分が乗っている船の記事が1面に出ていて、変な気分でした〉
【外国人も日本人もみんな戦々恐々。薬が切れる心配も】
――コロナの情報を知ったのは、具体的にどのタイミングですか?
最後の行程で、沖縄で下りて観光して、船に戻ってきたら、船長からのアナウンスで知りました。2月5日です。僕ら夫婦はそれまで全く知りませんでした。
船長からのアナウンスで、「日本の厚生省からの指示により、これから横浜へ最速で戻ります。乗客はこれから14日間は各船室に留まって頂き、食事は部屋でとってもらいます」と。それまでは美味しいものを好きなだけ食べられたけど、突然、横浜へ帰港後はお菓子ケーキみたいなものになりました。それが毎食です。1日3回。要するに、横浜に戻ったタイミングから、もう外部から新たな供給を受けないので、船内の食料庫にストックがあるものを配給するしかないわけです。
〈隔離後に各船室に配膳された食事。毎回ほとんど同じです〉
〈船内隔離が始まって数日後から、3日に1度、1時間、各フロア順に乗客が上層階の広いデッキに出て、外気を吸ったり、ウォーキング等をすることが許されました〉
――乗船者の3割は外国人だったわけですが、受け止め方に日本人との違いはありました?
全然分からないです。横浜に帰港後は部屋から出られなくなっちゃったので。2月8日になって「次は何階の乗客」って、順番に1回1時間ずつ、週2回ぐらいデッキに出られるようになりました。デッキに出ると他の乗客と顔を合わせるんだけど、もう相手が感染しているかもしれないので、喋れることはできないわけです。
でも顔を見れば様子が分かるから、外へ出て初めて、みんな不安がっているのが分かりました。外国人も日本人もみんな戦々恐々としていました。互いに喋れないし、船の下を見れば、たくさんの数の救急車がずっと待っているし。
デッキに出る時には、全員にビニールの手袋とマスク着用が義務付けられて、用意されたものを自分で取っていました。人と触れることは完全に禁じられていました。
――着用の習慣がない国の人もいたと思います。全員がルールを守っていましたか?
それはだって、感染したくないから守っていましたよ。乗船者の中に既に感染している人がいるわけだから。誰が感染しているか分からないし。
〈支給されたマスクとビニールの手袋を着けて、デッキで体を動かしていたら、あっという間に制限時間の1時間が経ってしまいました〉
――部屋のシーツ交換などはどうしていたんですか?
シーツの交換の間隔は長くなり、自分でやるしかない状況です。シーツの場合、部屋の外に置いてもらったものを取って、古いシーツを外へ出しました。それまではスタッフがやってくれていたけど、ゴミなども自分で廊下に出しました。
――ご年配の方が多いなかで、薬が切れてしまう方もいたはずです。その対応は?
薬は、途中でアンケートが来て、何を飲んでいるかを書き込みました。それを国や県から乗り込んできた厚生省や自衛隊、薬剤師など様々な人が各船室に持って来てくれました。それから何日か後、ほとんど処方箋薬が切れかけていた時に、またドカッと持って来てくれました。
――間に合わなかった人もいるかもしれませんよね?
そうかもしれないね。特殊な薬だと。
――薬の提供は無償ですか?
無償です。処方箋薬が切れちゃうのは乗客のせいじゃないから(笑)。
〈感染ウイルスが何かが正確に判明せず、船内はカミュの名著「ペスト」を彷彿とさせる空気感が漂っていました。私は部屋のテレビでアメリカ大統領の一般教書の演説を見たり、元々持ち込んでいた何冊かの本を読んで過ごしていました〉
【ツラい軟禁生活に追い打ちをかけた崎陽軒弁当の廃棄】
――船内に留まっている間は、どのように過ごしていたのでしょうか?
読書をしていました。僕は旅行にはいつも何冊か本を持っていくので、暇な時は読んでいました。それが1番良いですよ。違う世界のことを考えられるでしょ。その他には、テレビを見るとか。各船室内のテレビはチャンネルと繋がっているわけじゃなくて、船内のテレビだから、NHKと、外国人のためのBBCやCNNのニュースが流れるだけです。
〈NHKのニュースで、元職場の後輩でNHKに転職したM氏が私達のクルーズ船について解説していました。なんと奇遇!〉
――そのニュースを見て、知る情報は多いですよね。「外はこんな風になっているんだ」と。
そうそうそう。「東京中、大変なことになってるな」「神奈川県ではもう受け入れ病院が限られている」とかね。実際にこの船から、次々と救急車で運ばれていくわけだ。隣の部屋の人が運ばれていったからね。2人のうち1人がまず搬送されたんですよ。なにか廊下で「わーっ」て言っているんだけど、もう会話にならないというか。
それで残された1人が、「自分の部屋のテレビがつかない」とか言って、僕の船室に来て「手伝ってくれ」って。情報源がないのは大変だから手伝いました。「こことここを押せばばいいんですよ」って。うちの奥さんは「うつるから行っちゃ駄目だよ!」って言ったんだけど。その部屋の1人が運ばれたわけだからね。
――外国の方ですか?日本人ですか?
日本語が通じたから、日本人じゃないかと思うんだけど、分からない(笑)。
〈2月11日、奥さんと2人で協力して、今月4日の軟禁開始から初めて各船室に配給されたシーツや枕カバーを古いものと交換。結構な運動量で汗をかきました。次いで日本人の船室に日の丸の旗が配られたので、船室ドアのレター受けに飾って建国記念日を祝いました。
その直後のランチでは、乗船以来初めてカップラーメンが配られました。同時に配られたメインのランチには目もくれず、ミネラルウォーターを沸かして、味わって食べました。やはり日本人は、たまにはこれを食べないとツラいです(笑)〉
――ニュースになった崎陽軒弁当の廃棄の件もお聞きしたいです。どういった経緯だったのでしょうか?
とにかくずっと、朝から晩まで毎日お菓子ケーキみたいな軽食だから、うちの奥さんも「コンビニのおにぎりやカップヌードルでいいから食べたい」って言ってたんです。その時に、おそらく横浜の人だと思うんだけど「崎陽軒のシュウマイ弁当。あれを食べたい」とSNSで発信した人がきっと何人かいたんだよね。それで崎陽軒が無料で4000食を届けてくれると。それをテレビニュースでやってたんですよ。「うわぁ!」だよ。うちの奥さんが大好きだから喜んでたんですよ。
「いつ来るかな?」「まだ来ない、まだ来ない」って言ってたら、テレビのニュースで「食品チェックをしていないので、クルーズ船の規定で受け入れられない」と。かつ、「もう何時間も経っているので廃棄します」と。「ちょっと待ってよ…賞味期限が過ぎててもいいからさ」って感じです。結局、船を下りるまで軽食が続きました。まあ、食べられるだけ、ありがたいんですけどね。いまだに崎陽軒のシューマイ弁当を見ると、あの時の悔しい思い出が蘇ります(笑)。
――奥様は橘田先生の横で何をなさっていたのですか?
結局、寝るのが好きな人だから、寝るとか。あとね、良かったのが、テレビでラジオ体操をやるんです。朝8時辺り、お昼や夕方にも。それで体を動かしていました。
――部屋はいくつかランクがありますよね。値段はどれくらい違うのでしょうか?
基本的にランクは3つ。1番良いのはテラス付き。2番目は窓付き。でも窓が開かないんです。これが僕らの部屋です。3つ目は窓のない部屋。自分たちの部屋は、飲み代から何まで全部込みで当時1人29万円ぐらい。テラス付きがプラス10万円だから、39万円ぐらいかな。窓がないのが19万円ぐらい。
その3つしかないんだろうと思っていたんだけど、乗ってみたら、トップクラスがあったんです。もうミリオネア。「スイート」って名前を使わずに、何か違う呼び名をしていましたね。「なんじゃこりゃ!」と思いました。最上階に彼ら専用のプールがあって、彼ら専用のダイニングがありました。
――それは一般販売もしていない特別な部屋なんでしょうか?
そうなんですよね。特別に会社の者とコンタクトを取るんじゃないですか?桁が違うから。
――ミリオネアの部屋はともかく…テラス付きの部屋は隔離中も自由にテラスに出られるので、かなり大きなメリットがありましたよね。
大きいね。いくらテラスが狭くても大きいね。僕らはまだ窓があったんでね。開かないけど。外が見られただけでも良かったです。
【船上のメリーバレンタイン。船員への感謝】
〈2月14日、朝の船長による船内放送でバレンタインデーだと気が付きました。同日は終日外出する順番が巡って来ませんでしたが、夫婦揃って熱も咳もなく今日を過ごせていることに感謝していると、夕方に写真の様なプレゼントが各船室に届きました。そしてそして遂に、突然船室のドアがノックされ自衛隊の医務官が目の前に現れました。5日の横浜帰港以来、漸く私達の問診と検体採取の順番が巡って来たのです。無事に終了後、その医務官に心から「ご苦労様です。ありがとうございました」と労いました〉
――船員の方の対応はどうでしたか?
全然不満はないです。全くない。船のスタッフ達も被害者だからね。よくやってくれたと思うよ。
――政府に対しては、どうですか?
政府に対しても同じです。だってあの当時は、何の病気かも分からないしね。原因が何なのかも分からず、「どうも中国から来たらしい」ぐらいしか分からなかったから。
――下船後にはテレビのインタビューを受けていましたね。その際の「皆さんの協力のおかげです」という発言からも感謝の想いが伺えます。改めて、下りた瞬間はどんな気持ちでしたか?
「生きて下りられたな。でも本当に私達、感染してないのかな?」って。分からないからね。検査を受けて「陰性です」って言われて、証明書を貰って、家内も「OK」って言われて、「ああ下りられる」と思ってんだけど、実際は精密検査したわけじゃないから。あれでいいのかどうか分からないから。
――下りてから家に帰るまでは、どういった流れだったんですか?
「第何号室から第何号室までの乗客で、陰性の証明書を貰った人は、何時何分に何階のデッキに来てください」と。そこが出口なの。みんなパスポートを持って船に乗っていますからね、パスポートを見せて本人確認をして、陰性証明書を見せて、下船していくわけです。
それでタラップを下りていくと、外に救急車がダーッと並んでいました。その横を歩いて、いわゆる税関に向かいました。その税関に行く時に、下船できない乗客が船から「さよならー元気でねー」って。こっちは「お先に失礼します」って。それでパスポートチェックやら、荷物チェックをして出ると、市営のバスがもう何10台と待っていました。乗り込むと、運転手さんとスタッフは防護服。我々が乗るところと彼らとの間には、ビニールでバーッてカバーされていました。
そのバスで横浜駅に着いたら、ものすごい数のマスコミのクルーがいました。そこで他の人達からは逃げられたのですが、最後に追いかけて来たNHKからインタビューを受けたんです。
【横浜で下船後も藤沢で続く軟禁生活「刑務所から出てきた犯人みたいな感覚」】
――横浜駅で解散になって、そこで初めて自由の身になったんですね。
だけど、こっちは荷物を持って、いかにも…みんなそう思っているわけじゃないんだけど、乗っていた人間からすれば、「あっこれ、ダイヤモンド・プリンセスに乗ってた人?」と思われるって(笑)。
家に着いてすぐに、藤沢の保健所から電話がかかってきました。「これから毎日1回確認をする必要があるので、何時頃だったらお家に電話していいか教えてください」と言われて、「午前11時ぐらいであれば大丈夫です」と伝えました。「できるだけ外出はしないでください」「とにかく2週間は家を離れないでください」とも言われました。とはいえ、1か月間も留守だったので食べ物がないから。なので、近くのスーパーに3日に1回ぐらいそっと買い物に行きました。
――船を下りても、また隔離ですね。
そうです。かつ、私の中高大、元勤務先の人達が電話してきて「お前乗ってたのか!」って。「何で知ってるの?」って聞いたら、「お前テレビ出てたよ!」って。マンションの人達も当然何人かは知っているだろうと。そうすると、やっぱり出られないわけです。もちろん、「極力出ないで」と言われていますし。要するに、刑務所から出てきた犯人みたいな感覚です。「あいつが道路歩いてる」って。船の中で2週間監禁、デッキしか出られない生活で、帰ってきてから2週間も基本的に身を隠すっていうかね。家内と私で、交代で近くのスーパーに買い物に行くぐらいですね。
〈2月19日11時30分頃に横浜港にて下船して、30日ぶりに同港に上陸。第1陣でバスにてJR横浜駅へ行き、13時頃に藤沢駅の南口の我が家に戻って来ました。少し遅めのランチは、船内で食べ損ねたあの崎陽軒のシュウマイ弁当を駅の売店で買って美味しくいただきました(笑)〉
【隔離の真ん中をちょっと過ぎたぐらいに「嘘のような船内アナウンス」】
――ダイヤモンド・プリンセス号乗船に関わるお金は、全額返金されたとか。
下船前に割と早めに…船内隔離の真ん中をちょっと過ぎたぐらいに、船長アナウンスで嘘のような船会社からの連絡を受けました。「今回のクルーズ船でお支払い頂いた料金と、船内でお買い求めになられた際の料金全てをご返却いたします」と。全額です。
〈埠頭に待機する救急車。「あぁ感染したらこれで運ばれるんだ」と思っていました〉
――船内で結構買っていましたか?
それなりに買っていました。記念写真があるんですよ。船内のスタジオで自分の葬儀用に使えるような写真も撮ってもらったしね(笑)。写真代いくらだったと思う?
――1万円ぐらいでしょうか?
そんなもんじゃないよ。船の中のあちこちでプロのカメラマンが乗客を撮ったスナップ写真やスタジオでの写真もありで、全部で20何万払いました。
――それも返ってきたわけですよね?
もちろん、もちろん。全部ただ。パーティーの時の写真とか、ダイニングで食べている時の写真とか。
――相当な額のお金が返ってきましたね。
だから、2人で船賃だけで約60万円返ってきたでしょ。買い物、写真代も含めれば100万円近く返ってきました。
――そういったお金は、保険会社が支払ったようですね。
あの船会社はこの東南アジアクルーズだけじゃなくて、世界中で運航しているわけですよね。それに、あの会社だけじゃなくて、いっぱいクルーズ船がありますから。地中海クルーズ、エーゲ海クルーズ、アドリア海クルーズ、北極圏クルーズ。どこで何が起きるか分かりません。ただ、何もない方が圧倒的に多いから、保険会社も引き受けるわけですよね。
【何に最も腹が立った?伝えたいのは「後悔のないように生きろ」】
――この一連の騒動を振り返った時に、何に1番腹が立ちましたか?
だってもう、本当は船に乗る1か月以上前に中国でコロナが発生していたわけでしょ。だから隠蔽ですよ。11月中旬か下旬。ひょっとしたら10月ぐらいに中国国内で発生していたわけですよね。それをずっと隠していたが故に、外に漏れなかった。一部漏らした人は即捕まって、牢屋に入れられた。それが先に分かっていれば、キャンセルして乗らなかったかもしれないし。
感染しちゃった人には申し訳ないけど、幸運だったのは、その時は既に寄港予定先を全て回って、堪能して、全部終わって、横浜に戻ってから監禁だったでしょ。途中で監禁されたら大変でした。鹿児島だったらまだ日本だし、香港やベトナムでもダナンだったら、都会だから病院があるかもしれないけど。
――最後にお聞きします。この騒動を経て、教訓にすべき点は何でしょうか?
防ぎようがないからね…。中国に「隠蔽体質をやめろ」って言っても、中国の隠蔽そのものが直らないから。まあせいぜい「その日その日、納得のいく生き方をしろ」と。「後悔のないように生きろ」ってことです。
※橘田先生スペシャルインタビュー第1回終了(全3回)