サンフランシスコ支部

サンフランシスコ支部

サンフランシスコ支部は卒業生の親睦・ネットワーキングを広げることを主に活動しております。 また、青山学院大学からサンフランシスコ州立大学に交換留学されている現役大学生への支援にも力を入れており、将来を担う若者の育成に貢献してゆくことを目指しております。

2025年 青学校友会サンフランシスコ支部 オンライン新年会 開催報告

2025年02月03日

青学校友会サンフランシスコ支部 オンライン新年会 2025 開催報告

2025年1月25日(土)の晩、青山学院大学校友会サンフランシスコ支部は、オンライン新年会を開催しました。新しい年の始まりを祝うため、現地在住だけでなくすでに日本に帰国された笠原さんと遠藤さん、また新たに校友会に入られた2名の方々も加えて、計12名の校友がZoomを通じて集まり、さまざまなお題で盛り上がりました。

 

12名の参加者

 

冒頭では、支部長の秦さんからの挨拶とともに、2025年の運営計画が語られ、今年も多くの活動が予定されていることが発表されました。

今回の新年会は12人とこじんまりした集まりでしたが、その分インタラクティブな会話が進み、和やかな雰囲気の中で楽しい時間を過ごすことができました。一人一人が注目され、話す機会が多かったことも良かった点の一つです。

新年会では、最近新たに校友会に加わってくださった2名の方々の自己紹介や参加者の近況報告などで大いに盛り上がりました。長橋さんは法学部出身で、米国のロースクールを経て現在サンフランシスコの弁護士事務所に勤務中だそうです。高橋さんは文学部出身で、駐在員として渡米し夜間のMBAを取得後、現在はVCに転職されたというご経歴をお持ちとのことでした。

近況報告では、Babinさんはスポーツ観戦がお好きで、Dodgersの生地を使って浴衣を自作し、お子さんに着せて大谷翔平の試合観戦をした時のお話と写真をシェアしてくださいました。そのクリエイティブなアイデアと微笑ましいエピソードに、参加者一同が心温まるひとときを共有できました。

 

 

また、笠原さんが昨年11月に母校で行われた青学創立150周年記念式典と祝賀会に参加された際の雰囲気をシェアしてくださいました。その他、ご家族やお仕事のアップデート、健康(不健康?)の話題など、多岐にわたるテーマで盛り上がりました。

参加してくださった皆様、そして支援してくださったすべての方々に心から感謝申し上げます。今年も青学サンフランシスコ支部校友会をどうぞよろしくお願いいたします。

Wolfe 進(2004年国際政経卒)

2024年 秋の昼食会

2024年11月24日

2024年 秋の昼食会

先週の11月17日(日曜日)、SF青学校友会恒例の秋の食事会を、San FranciscoのDumpling Kitchenという飲茶レストランで開催しました。出来上がったものがワゴンで巡回する形式ではなく、食べたいものを頼む形の飲茶でした。どれも本格的でおいしかったです。

残念ながらお怪我のため、お食事会を企画してくださった秦さんはご参加できませんでしたが、千葉さんが幹事として、仕切ってくださいました。校友会からは幹事の千葉さん、中川さん、バリントさん、辻さん&辻さんの奥様、戸貝さん、原田さん。そして、留学生の橋本さん、江積さん、寒水さんにもご参加いただきました。

人数は少なかったですが、こじんまりと和やかなお食事会となりました。

今回ご参加できなかった校友会の皆さんとも、次の機会にお会いできればと思います。

寒い時期になりましたが、ご自愛ください。

 

1985年

理工学部経営工学科卒業

原田 勝

青山学院校友会サンフランシスコ支部発足30周年記念インタビュー 第二回:Noriko Yashima Balint さん

2024年11月15日

青山学院校友会サンフランシスコ支部発足30周年記念インタビュー

第二回:Noriko Yashima Balint さん

1. お名前と簡単な経歴 : お名前と青山学院で在籍した部と簡単な経歴を教えてください。

現在のフルネームは、Noriko Yashima Balint です。結婚後は Noriko Balint だったのですが、米国籍を取得した時に Yashima をミドルネームに入れました。旧姓は八島紀子です。結婚した当時は夫の姓に変えるのが当然と信じていたのですね。ミドルネームに旧姓を加えるなんてことは考えもしませんでした。

1968年に青山学院大学第II学部英米文学科 を卒業しました。

東京で生まれました。生後6ヵ月に父が出征し、硫黄島で戦死したため。父の実家にもどりました。9歳の時に新潟県村上市の母の実家に引っ越し、母が地元では著名だった木彫家と再婚し、養父は全国的にも実力ある芸術家となるために東京に移り住むこととなりました。1964年に青山学院大学の第二部に入学し、昼間は有楽町にあるツーリストインフォメーションセンター外国人案内所に務めていました。また、青学ではヨーロッパ研究会に所属し、ここで知り合った仲間とは今でも交流があります。

 

2. 渡米について:いつ、どのようなきっかけで渡米されましたか?             

ツーリストインフォメーションセンターにお客様として来たPeter Balint と知り合い、1968年3月青学卒業後、9月に結婚して、1969年に渡米しました。上記ヨーロッパ研究会にピーターも名誉会員として活動に参加することとなりました。米国籍でもハンガリー出身なので、一応ヨーロッパ人と見なして顧問にすることにしたのです。私の家族の反対を押し切って私達が結婚するのに協力してくれたのもヨーロッパ研究会(ヨロ研)の仲間です。

紀子さん & ピーターさん

 

3. 校友会参加の経緯: 青学校友会サンフランシスコ支部に参加された時期とそのきっかけや、どのように関わっていらっしゃったかを教えてください。

私は渡米したときはすでに娘を妊娠しており、知らない国での妊娠・子育てに奮闘中で校友会に参加する余裕など全くない状態でした。そんな中でジャパンタウンは日本食を買うばかりでなく、私の心のよりどころでもありました。「北米毎日」という新聞を知り、青山学院大学同窓会(まだ校友会とは言っていなかったはずです)の存在を知ったのもジャパンタウンでのことだったと思います。校友会に参加したいと思いながら、遂に参加したのは1987年ころで、銀行に務めていたこともあり、参加し始めてまもなく会計係になりました。

 

4. 設立当初について:青山会(校友会)発足当初について – 青山会(校友会)が発足した当時の様子をご存じでしたら教えてください。また、校友会の設立に尽力された方々との思い出もありましたら教えてください。

北米毎日の記者をされていた、松尾あきらさんと土屋さん、ホッチキスさんそれに成沢さんは青山会設立発起人のメンバーで、この方たちが集まると設立当時のエピソードなどを話していらして、私もその場にいたのに今となっては何も思い出せません。松尾さんは人気のコラムをお持ちでジャパンタウンの顔役でもありましたから、恐れ多くて私などが話かけられる雰囲気ではなかったのです。多分青山学院卒業生でサンフランシスコ・ベイエリアに移住していた方々が、キクオブトウキョウで集まって飲み会などをしていたところから始まったのではないかと想像します。

 

5. 校友会活動について – 校友会で一番思い出深いイベントや活動はなんですか?また、校友会の運営に関わる中で特に印象に残っているエピソードがありましたら教えてください。校友会活動の中で、やりがいを感じた瞬間などもありましたら教えてください。

青山会の会計係になったものの、もともと私は表舞台にたつのは苦手で裏方が好きです。表に立つのはいつもスタイリッシュで人望もある土屋さんでした。ホッチキスさんはおおらかな人柄で人気がありゴルフ好きで人脈もおありでした。この「3人娘」ならず「3人おばさん」でそれぞれの持ち味を生かして会を運営していました。

まだパソコン、インターネットや携帯なども普及しておらず、連絡はほとんど手作業です。郵便や電話、ファクスで連絡し、年会費$30くらいを有志から徴収して連絡費にあてていました。私が入会したときは、年に2,3回ヒルトンホテル内にあった「キクオブトウキョウ」で夕食会があり、集まるのは7~8人、または2~3人なんてこともあり、会員を増やすのが先決問題だったのです。私は必死で会員のリクルートに奔走し、青学の幼稚園を卒業した歯医者さんがいると聞くと、そこの患者になり、その方が会に来てくださったときは本当にうれしかった。またある会社の上役だという青学卒業生が東京から出張時に会に参加してくださり、渡哲也は親友で飲み友達だと豪語していたのを真に受けて、渡さんが会に出席して下さったら会員が増えるのではとその方を丸の内のオッフィスまで訪ねていったら、あっさり追い出されました。お酒の席で、「渡哲也なんてね。私が言えばすぐ来ますよ。」なんて言ったら、本当に私が来てしまったのでご本人も”あやー、”と思われたことでしょうね。ナイーブというか天然なんですね、私は。

キクオブトウキョウのオーナーの成沢さんは、日本の料亭「石亭」の息子さんとそのレストランを開業し、青学卒業生でもあり多分青山学院同窓会の発起人だと記憶しています。成沢さんにはレストランを閉店なさるまで大変お世話になりました。格安で豪華なお料理を出してくださり、その当時の会員は皆その恩恵を受けたものです。その他、成沢さんは優秀なシェフでピクニックでは腕を奮ってくださり、ピクニックの人気で会員はどんどん増えていきました。

あの当時ピクニックはマリンカウンティでのことが多く、マクネアズビーチ、パラダイスコーブなどを覚えています。マリンカウンティにお住まいのホッチキスさんがプール付きの素敵なご自宅を提供して下さっての昼食会も忘れられません。ピーコックカントリークラブのマネージャーである卒業生がいたころがあり、ホッチキスさんが会員だったこともあって、豪華なゴルフ・アウティングを企画したこともありました。この方はこの後、指宿の方のカントリークラブに栄転され、やはり青学卒業生という指宿のホテルオーナーとも提携して青学サンフランシスコ支部からのゴルフツアーなどという夢のようなお話も出たのですが、いつの間にか立ち消えになってしまいました。

青学野球部が来たとき、色々企画して楽しく過ごして頂いたこと、ペギー葉山さんがいらした時、サンフランシスコ支部の存在を喜んで頂いたこと、私にとってはやりがいを感じた瞬間ばかりでした。でも一番の思い出深い出来事は、”会には参加出来ないけれど、それらのイベントのご案内を受け取ることによって繋がりを感じられるのでいつも楽しみにしています。”との感謝状を受け取ったことです。もうすぐ100歳に届くという方でした。裏方冥利につきると思いませんか?

 

6. 校友会の変遷について:設立直後と現在を比べて、校友会の変化や成長について感じることはありますか? 校友会の活動や運営において、特に変わった点や進化したと思われる点がありましたら教えてください。

インターネット使用の運営方法については、私には何も言うことはありません。進化したと言えば、そうなのでしょうね。その時代に合った運営をしていけばいいのだと思いますが、その進化に取り残されて去って行った人を何人か知っています。年代にかかわりなく交流して行ける場というのが校友会の良さです。誰でも参加出来る環境が残されて行くことを願っています。

 

7. 個人的な経験について:校友会の活動を通して得た友人や人脈について教えてください。また、校友会活動を通して何か学んだことなどがありましたら教えてください。

2006年から2009年にかけて、ピーターの赴任でロンドンに住む機会を得ました。誰も知り合いがなかったので、ロンドンの青山会会長に連絡を取り、早速定例会に出席して、伊藤いづみさんに会いました。その当時の会長は依田さんという男性で今はパイプオルガン奏者として活躍していらっしゃいます。

いづみさんは依田さんの後にずっと会長をされている人で今でも親しくお付き合いをしています。いづみさんは明るく、社交的ですぐ色々な人と親しくなってしまうような人です。スポーツが好きで、大の相撲好きであり、私がズームの新年会でパンデミックで唯一ポジティブな出来事と申し上げた、スカイプによる相撲観戦を続けている相手というのも実はいづみさんです。昨年11月にはご一緒に福岡場所に行きました。いづみさんはロンドン青学校友会の顔で、何年か前には青山会ロンドン支部同窓会東京支部まで結成されました。私も東京で1回参加させて頂きました。活動に関してはフェイスブックグループで見ることが出来ます。青山学院大学の裏手にある校友会本部にも帰省される毎に訪問されるそうです。

これは余談ですが、私も1回だけこの本部に伺ったことがあります。校友会から資金が出るようになる前のことです。売店に寄って青山学院大学の旗とピクニックの時使うエプロンを買い求めました。当時の会員から集めた会費で賄いましたので、先輩たちからの贈り物と思ってください。

私がロンドンにいた当時、クリントイーストウッドの硫黄島の映画2本が上映されました。私の経歴のご質問に父の硫黄島での戦死について記述したのは、このエピソードをお話ししたかったからです。戦争とか硫黄島に対して屈託を抱いていた私は硫黄島の映画を見にいくことは出来ないと思っていました。その私の背中を押して下さったのがいづみさんです。お蔭で映画を見に行っただけではなく、政府が主催する硫黄島慰霊祭にこれまで3回参加し、私の中で何等かのクロージャーを迎えることが出来ました。

ロンドン支部の定例会はその頃は渡辺さんという方が経営していた「酔処」(よいしょ)という居酒屋で行われていました。渡辺さんは青学卒業生でラグビー部に所属されていたそうで、ラグビーのOBたちが良く飲みにきていたようです。ロンドンのキクオブトウキョウみたいなものでした。食事もとても美味しくて、そこに行くと日本にいるみたいでした。校友会のお蔭でロンドンでのお友達が出来、ロンドン生活を満喫出来ただけでなく、生まれてからずっと抱いてきた気持に整理をつけることが出来たのですから、このときほど校友会に属していることを感謝したことはありません。

ロンドンよりのご友人と

 

8. 未来へのメッセージ:これからの校友会に期待することはありますか?また、今後の校友会メンバーへのメッセージや校友会の未来に向けて何かアドバイスなどがありましたら教えてください。

重複になりますが、特にありません。これからはインターネットを駆使して会を運営されていくのだと思いますので、私のようなオールドタイマーがアドバイスすることはあると思えません。但し、青山学院校友会がもっとグローバルになったらいいのにという夢は私の中にずっとありました。他の国に移住した卒業生がどのように生活を送られているのか知れたらいいですね。最後に小さいことですが、校友会本部から送られてくる資金については使用法についてもっと皆の要望を聞いてほしいと思います。今は留学生への出費に偏っているように感じます。

紀子さん & 伊藤いづみさん

サンフランシスコ支部発足30周年記念インタビュー #1 岡野ペダーソン啓子さん

2024年10月07日

青山学院校友会サンフランシスコ支部発足30周年記念インタビュー

第一回:岡野ペダーソン啓子さん

1. お名前と簡単な経歴 : お名前と青山学院で在籍した部と簡単な経歴を教えてください。

私の名前は岡野ペダーソン啓子(Keiko Pederson)です。旧姓は岡野啓子です。

小学校は地元の公立に行きましたが、中学から青山学院の中等部に入り、高等部まで青山学院に在籍しました。記憶があやふやですが、1952 年ごろに高等部を卒業し、その後、3歳から習っていたピアノをもっと勉強したくて国立音楽大学の教育音楽科に進学し、そこでピアノと声楽を勉強しました。

私は1934年にインドネシアのスラバヤで生まれて、一歳半の時に日本に戻り、東京の白金台と高輪台で育ちました。22歳か23歳の時にアメリカで働くための“コントラクトビザ”と500ドルだけを持って渡米して以来、ずっとサンフランシスコ・ベイエリアに住んでいます。ピアノバーやクラブでピアノを弾いたり、ピアノを教えたりすることを生業にしてきました。ピアノを教えることは23年間続けました。

渡米後数年してアメリカ人と結婚して、子どもを二人もうけました。ふたりとも今では成人してそれぞれ家庭を持って独立し、長女はサンフランシスコに、長男はハワイに住んでいます。孫は三人で、女の子が二人、男の子が一人です。

60歳を過ぎてから、「自分が本当にやりたいことをやろう!」と一念発起して、すっかりご無沙汰していた声楽の個人レッスンを受け始めました。その頃バークレーに住んでいらした、声楽指導ではちょっと名の知れたフラーデンカム先生から教えを受けました。その先生のお母さまはかの有名な作曲家のプッチーニのお弟子さんでしたので、私は勝手に自分をプッチーニの孫弟子と自負しています。先生のおかげで、単独でリサイタルができるまでになり、人間としてもとても自信が持てるようになりました。この先生には今でもたいへん感謝しています。

数年前に夫が亡くなったので家を処分し、今はアラメダのシニアセンターに住んでいます。

 

2. 渡米についていつ、どのようなきっかけで渡米されましたか?

国立音楽大学を卒業したあと、会員制クラブ『エキゾクカ』でピアノを弾いていたところ、当時フジテレビで働いていた旧知のすぎやまこういちさんを通して、ダークダックスのマネージャーを紹介され、日本人のオーナーがサンフランシスコに大きなナイトクラブを作るのでそこでピアノを弾かないかと誘われました。最初は「英語ができないから無理です」と断っていましたが、“お兄さん”(すぎやまこういちさん)の勧めでテープと写真を先方に送ると、「すぐに来てください」という返事がきました。

当時(1950年代半ば)はまだ戦後10年くらいしか経っていなかったので、今のように簡単に渡航できる時代ではありませんでした。特に20代の女性が単身でアメリカに渡るのは非常に危険と考えられていたためとても稀なことで、最初は家族も皆反対でした。でも、知らないところを見てみたいという好奇心と軽音楽の本場で勉強してみたいという強い思いが勝った私は、このチャンスを逃すまいとスポンサーにコントラクトの作成や住むところの保証をしてもらって、家族の承諾を取り付けることができました。こうして私は周囲の心配をよそに、単身でアメリカに渡りました。

 

3. 校友会参加の経緯青学校友会サンフランシスコ支部に参加された時期とそのきっかけや、どのように関わっていらっしゃったかを教えてください。

最初は、私の渡米のスポンサーになってくださった日本人の方がサンフランシスコで開店したナイトクラブ『銀座ウェスト』でピアノを弾いていました。そこには日本の商社の方たちがよく出入りされていて、その中のおひとりが青学出身で、「こちらに青学の同窓が集まる会があるので、是非あなたも入会されませんか」とお声をかけてくださいました。それが『青学校友会』に入るきっかけです。1950年代のことですから、当時はまだこの集まりは正式に『校友会』として発足していなかったのではないかと思います。『青山会』の前進だったかもしれません。

当時食事会に集まるメンバーはほとんどが年配の方で、会社の支店長さんなど中年以上のえらい方ばかりでしたが、同窓のよしみというだけで、私のような若輩者も暖かく会に迎え入れてくださったことは、本当にありがたいことでした。

余談ですが、『銀座ウェスト』との契約が切れた後は、サンフランシスコの『クラブ富士』というピアノバーや、オークランドのジャックロンドンにあった大きな日本食レストランなどでピアノを弾いていました。ある日、その日本食レストランに、当時サンフランシスコ・シンフォニーの音楽監督をされていた小澤征爾さんと奥さまの江戸京子さん(ピアニスト)がいらっしゃって、私の演奏を聴いてとても褒めてくださったことは今でも忘れられません。

 

4. 『青山会(校友会)』発足当初について – 『青山会』が発足した当時の様子をご存じでしたら教えてください。また、校友会の設立に尽力された方々との思い出もありましたら教えてください。

当時、中心になって『青山会』を盛り立てていらっしゃったのは、鯉沼みやこさん(みやこ・ホーキンスさん)と土屋和子さんだったと思います。鯉沼さんとは中等部と高等部で、土屋さんとは高等部でご一緒しましたが、私は子どもが生まれてからあまり青学の集まりに参加できなくなってしまったので、『青山会』が発足した当時の詳しい経緯についてはあいにく良く知りません。

 

5. 校友会活動について – 校友会で一番思い出深いイベントや活動、または特に印象に残っているエピソードがありましたら教えてください。

当時の『校友会』のイベントは、1月の新年会(夕食会)と夏に行われるピクニックで、年2回ありました。夕食会はヒルトンホテル内の日本食レストラン『Kiku of Tokyo』に集まることが多かったです。お名前を忘れてしまいましたが、当時青山会のメンバーのおひとりが『Kiku of Tokyo』の支配人をしていらしたからだと思います。

『校友会』イベントの中では、ペギー葉山さんが公演のためにベイエリアにいらした時に、『校友会』メンバーのみんなでサンフランシスコのチャイナタウンをご案内して、ペギーさんと一緒にお食事をしたのが一番印象に残っています。私が青学で親しくしていた同級生のお姉さんがペギーさんと同級生だった関係で、青学に通っていた時代からなんとなくペギーさんのお顔だけは存じ上げていましたが、親しくお話ししたのはこの時が初めてでした。

あとは、青学の野球チームがサンフランシスコにやってきた時に、日本街でお食事をしたことも印象に残っています。たしか当時、青学の野球部は、東都大学リーグ優勝だけでなく全国大会でも優勝するなどの大活躍をしていた頃で、サンフランシスコ訪問はそのご褒美だったと聞いています。

 

6. 校友会の変遷について – 校友会発足前後と現在を比べて、校友会の変化や成長について何か特に感じることはありますでしょうか? また、校友会の活動や運営において、特に変わった点や進化したと思われる点がありましたらお教えください。

いまは若い方がたくさんいらっしゃるのがとっても良いですね。私が会に加わった当初は、年配の方ばかりでかなり年齢に偏りがあり、若い人は私ひとりでした。今はその反対で、私は希少な高齢者メンバーのひとりになっています。現在はメンバーの年齢層がうまく散らばっていてバランスがあり良いと思います。

 

7. 未来へのメッセージ – これからの校友会に期待することはありますか?また、今後の校友会メンバーへのメッセージや校友会の未来に向けて何かアドバイスなどありましたら教えてください。

『校友会』のイベントで、メンバーのお子さんたちが毎年どんどん大きくなっていかれるのを見るのはとても嬉しいことです。また、『校友会』のイベントに参加すると、私のような老人でもいつも分け隔てなく暖かく仲間に迎え入れてくださり、同窓ということでみんながひとつになれるような感じがするのもとても嬉しいです。おおらかで偏見のないところが青山学院の良いところですよね。これからもみんなで自然に助け合っていけるような会であってほしいなと思います。

ただ、このごろの『校友会』の集まりでは、青山学院創立時のキリスト教の信念・精神があまり感じられないような気がするのが少し寂しいです。以前の『青山会』の集まりでは、牧師先生がいらしてお祈りをしてくださったり、時にはみんなで讃美歌を歌ったりお祈りをしたりすることもありました。青学に入られた方々は、宗教の自由の中で、ある意味「キリスト教の精神」を選んで入学されてきたわけですので、『校友会』のイベントでも、その精神 – 人を助ける精神 – が流れていることが少しでも感じられるようなものがあると良いなあと思います。いつまでも青山学院の精神の根っこを忘れないでほしいです。

 

後記

 はえある第一回青学校友会サンフランシスコ支部発足30周年記念インタビュー記事には、おそらくSF支部で最高齢の岡野ペダーソン啓子さんにご登場いただきました。啓子さんはインターネットもEメールもなさらないとのことでしたので、以下の記事は、私が、2日間(計4時間)にわたって啓子さんに直接お会いしてインタビューしたものを記事にまとめたものです。

記念インタビュー記事の2回目以降は、メンバーの方ご自身で質問票に書き込んでいただいたものをインタビュー記事として掲載する予定です。次回以降もどうぞお楽しみに!       秦 晴子

 

インタビュー後に啓子さんと

2024年夏のBBQ

2024年10月02日

2024年8月25日、青山学院大学サンフランシスコ支部は、同窓生とその家族および交換留学生を対象としたBBQイベントを開催しました。今回のイベントには、40名以上の参加者が集まり、楽しいひとときを過ごしました。

参加者全員の集合写真

数え方によっては50周年の記念のケーキ

本校150周年/サンフランシスコ支部30周年を記念して、当日はWoodsideの美しい公園で行われ、特別にケーキも用意されました。参加者のおひとりが持参してくださったケーキを囲んで皆で30周年をお祝いしました。ケーキには「50」周年記念とありましたが、その方によると、正式な設立以前にも青学同窓会の親睦活動は活発だったようなので、その期間も含めた数字とのことです。参加者たちは美味しい料理とバーベキューを楽しみながら、旧友との再会や新しい友人との交流を深めました。特に、留学生たちは同窓生から貴重なアドバイスや経験談を聞くことができ、大変有意義な時間を過ごせたことと思います。子どもも大人も一緒になって楽しむ姿が印象的で、笑顔が絶えない一日となりました。

 

居崎さんの近況報告

いつもお元気なけいこさん

近況報告を聞いている留学生と校友会の皆さん

SF支部の連絡先について

2023年05月22日

現在80名程の会員がおり、親睦会を年4回開いております(BBQ、新年会、秋・春の夕食会)。随時新会員を募っておりますので、ベイエリアにお住まいの卒業生で興味のある方は以下にご連絡していただければ幸いです。(会費は徴収しておりません。)

sf.aoyama.kai@gmail.com

SF校友会幹事一同

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