「地球の過ごし方」を教えてください!
回答はこちらから!
〈先日、パーティー会場であるレンブラントホテル東京町田の下見に行ってきました。非常に雰囲気が良く、否応なしに高揚します〉
【10周年記念スペシャルイベントのご案内】
2025年11月8日(土)に行われる地球社会共生学部創設10周年記念イベントへの参加申込が開始となりました!当日は日中に相模原キャンパスで、平澤典男先生・升本潔先生・松永エリック匡史先生による特別対談や、海外招聘の先生によるシンポジウムを予定しています。
夜には、地球同窓会主催の10周年記念パーティーを開催!地球愛No.2決定戦、地球川柳コンテスト、留学インタビューなどに加え、あるシークレット企画も実施予定です。
8月16日に宣伝映像を撮影してきました。近日中に後述の公式インスタグラム等でアップします。お楽しみに!通常の3倍鋭意に準備を進めています。
卒業生の皆様に思う存分楽しんでいただける、これでもかというほど盛りだくさんの内容となっています。以下の特設サイトより詳細をご確認の上、是非お申し込みください!
★地球社会共生学部10周年 特設サイト
https://kitos-001.jp/Aoyama_GSC10th/Entry/RegTop.aspx
※参加申込の管理は京王観光が対応してくれます。ご不明点がある場合は、サイト下部の問い合わせ先もしくは、地球同窓会(agu.gsc.alumni@gmail.com)までご連絡ください!
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夜の部(記念パーティー)概要
開催日時:2025年11月8日(土)18:00~21:00
開催場所:レンブラントホテル東京町田(JR町田駅より徒歩約5分)
参加費:5,000円
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イベント当日まで地球社会共生学部の公式Instagramでも最新情報や見どころをお伝えしていきます。是非フォローして、投稿のシェアや応援もよろしくお願いします!
★地球社会共生学部の公式Instagram
https://www.instagram.com/gsc2025_official?igsh=MWI5d2Jqbjh5YXN6NA==
さらにさらに!この度、10周年記念作品の1つとして横型ショートドラマを制作しました。テーマは「サガキャンへ戻ろう」。母校凱旋が疑似体験できます。心の声をオープンにしてご堪能ください。なお、撮影の裏話を数々のメイキングカットと共に紹介する記事も公開中です。こちらも合わせてチェックしてみてください。
★地球社会共生学部10周年記念作品②「サガキャンへ戻ろう」
★ 裏話&メイキングカット満載!「サガキャンへ戻ろう」製作の裏側
https://www.alumni-aoyamagakuin.jp/gsc/information/2942/
今後、最新情報を当HPで随時発信していきます。それでは皆様、11月8日に再会できることをとんでもなく楽しみにしています!
〈イベント準備、通常の3倍鋭意に進行中!〉
【地球社会共生学部10周年記念作品サガキャンへ戻ろう】
「アジの味はどうだ?スーパーフライ級か?」
「ここはまるで俺の胃袋の実家だ。俺には帰るべき家がある」
「やはり相模原には渋谷にない味がある」
仕事にかこつけ、6年ぶりに母校に戻って来た卒業生が思い出の学食で舌鼓。あまりの美味しさに心の声とオヤジギャグが止まりません!
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腹が減っては何ひとつできぬ。食こそ最重要ミッションである――。某有名作品に体全身でインスパイアを受けた横型ショートドラマ「孤独の学食グルメ」を制作しました。「地球社会共生学部10周年記念」の冠付きです!本稿ではそれなりに時間を要した制作の歩みを、数々のメイキングカット、裏話と共に紹介します。
2025年5月30日9時。オープニングで登場する、淵野辺駅と相模原キャンパス周辺のカットから撮影です。あいにくの雨で、若干暗いのは残念ですが、これはこれで味わい深いと言えるかもしれません。地球社会共生学部の10年間を振り返ってみれば、思い出はいつの日も雨でした。雨は冷たいけど、たまには濡れていたいです。
主役が登場!前の仕事が押してしまい、東京駅から新横浜駅まで新幹線を使ったとか。でも事前準備は入念。スーツはあのキャラクターに寄せたそうですよ。形から入るのは大事!何だって入れるものはとりあえず入っておくのが地球流です。
淵野辺駅から、在学中と同じルートで相模原キャンパスに向けて歩みを進めていきます。2023年12月8日にオープンしたマクドナルドには心底驚いていました。もっとも、表情は全て素であり、過剰な演技は決してありません。
「おお、マックができてるじゃないか!」
「このローカルな感じがまた良いんだよなあ」
「エスポットも懐かしいな」
これらのセリフは、彼が本当に心の中で発した言葉です。
ロケ地変わって相模原キャンパス内。まずは「それにしても腹が減った」の一言をきっかけに、ポン、ポン、ポン…インスパイア元でお馴染みのシーンを撮影しました。いかに忠実に再現するか。難しくもあり、非常に楽しくカットを重ねられました。
淵野辺駅付近から度々見切れていた名バイプレーヤーも超ナイスです!彼女のリアクションをよく聞くと…いや、よく聞かずとも初聞で分かるかもしれません。「ひゃっ!」の一言も別撮りで後付けです。声色を分けた4パターンを提供してくれたなか、珠玉の「ひゃっ!」を選びました。よりリアルな「ハァっ!」もあったのですが、コミカルさ、分かりやすさを追究しました。
いよいよメイン舞台、食堂!券売機前でのメニュー選びのシーンは、1分以上カメラを回したのですが、尺の都合で大幅にカット。編集でキュッと短くしました。そのため「これにするか」の箇所は、現場では「迷うなあ」と口にしており、この後もまだまだ迷い続けたのでした。
長考の末に下した決断は「特定食A」。その味は?表情が全てを物語っていますね。自然と笑みがこぼれるほどの圧倒的な美味さでした。
「イイ!これイインダス文明」
「大アリ!大アリクイだ」
そしてダジャレを連発!絶口調です。2019年に卒業して以来、6年ぶりの家庭の味に大満足の様子でした。
噛みしめるような足取り、心なしか大きく感じられる背中からも、母校凱旋の充実ぶりが窺えます。
「次はUTARだな」のUTARとは在学中に留学したマレーシアの大学のことです。つまり、次は海外出張編?続編に期待したいところです。ただ、第2弾が公開されるまでに「プラダを着た悪魔」は20年、「トップガン」は39年もの年月を要しています。地球社会共生学部50周年まで?気長に待ちましょう!
さて、撮影は終わったものの、この作品の肝である心の声を録らなければなりません。7月7日は七夕の夜、横浜駅近くの会議室で2時間みっちりと収録しました。「空調の音を入れたくない」という執念から、クーラーはオフ。文字通り灼熱のレコーディングになりました。手間暇をかけたエンドクレジットを含め、こだわりは尽きません。「心を燃やせ」ここに究まれり。
特定の地域に所縁のある方々を招き、様々な視点から魅力を語ってもらう新企画が始動!長崎、長野、千葉に続く第4弾は、独自の進化を続ける唯一無二のパラダイス北海道です。故郷を愛し、誇る者同士が顔を合わせた時に初めて生まれる、果てしなくガチでとことんディープな情報を「地球の過ごし方/北海道特別編」として、自信を持ってお届けします。
【参加者】
山田和哉
1期生で2019年卒です。生まれも育ちも千歳市で、18歳まで過ごしました。大学進学で上京し、青山学院大学に在学していたのですが、途中から「建築を学びたい」という思いが強くなり、大学院はアメリカのワシントン大学セントルイス校に進学しました。大学院を卒業後、ニューヨークで就職して、今4年目になります。
吉田凜華
現在大学4年で2026年卒です。18歳まで札幌市で育ち、大学進学を機に上京しました。父の仕事の都合で、苫小牧や3年ほど三重県に住んでいたこともあります。
【北海道への愛はでっかいどう!】
本日は遠路遥々お越しいただきありがとうございます。北海道を語り尽くしましょう!最初のテーマは「ここが好きだよ北海道」です。溢れる魅力を教えてください。
吉田
食べ物が安くて美味しいところが大好きです。東京価格ではないので、飲み放題2、3時間でも900円とかで飲めます。居酒屋のメニューもいちいち「北海道産」って書かなくても全部北海道産で、美味しくてお手軽に楽しめるところが最高です。
1番おすすめの“北海道産”はありますか?名産品と言ったらちょっと構えるので、シンプルに北海道で1番好きな食べ物で大丈夫です!
吉田
私、実はお刺身、海鮮が苦手で。
山田
え?そこ語れないのきついね(笑)。
吉田
「全然札幌出身じゃないじゃん!」って言われるんですけど、ラーメンは好きですね。味噌バターコーンのラーメンはすごい好きです。
【季節は巡る魔法のように】
山田さんは北海道のどんな部分に魅力を感じますか?
山田
好きなところ、そうですね…食の魅力は言うまでもないので、それ以外で挙げるなら四季の美しさですね。1年のうち冬が占める割合は長いですが、その分、四季の移ろいがはっきりしていて、自然も本当に豊かです。その色彩の鮮やかさが北海道の魅力だと思いますし、それを目当てに多くの方が観光に来てくれます。
やっぱり冬が好きですか?そんなこともない?
山田
いや、冬は嫌いです(笑)。寒くて。
夏はどうですか?
吉田
暑いですよね?さらっとはしてるんですけど。30度近くいきます?
山田
うんうん、最近暑いよね。
吉田
でも北海道は湿度がないんです。さらっとしています。
山田
寒暖差が大きいよね。夜はぐっと冷え込むので上着が必要。あと、学校にはクーラーがなくて、暖房用のヒーターだけなんです。それでも夏は問題なく過ごせますね。
【スケート?orスキー?】
かなり地域性があると思います。山田さんが生まれ育った地域は、雪は結構降りますか?
山田
僕のいた千歳は雪が少ない方ですね。千歳や苫小牧は積雪量が少ないんです。地域によって全く違っていて、例えば十勝地方だと、ほとんど雪が降らない場所もあります。体育の授業がスケートの地域とスキーの地域に分かれるのも、北海道ならではでユニークなところかな。吉田さんの地元の札幌は盆地で雪が多いし、山も近いので、授業はスキーですよね?
吉田
そうなんです。でも苫小牧にいた幼稚園の時はスケートだったんですよ。なので、苫小牧から三重に行って札幌に行ったら、「あれ?スケートじゃないの!?」ってなって、スキーを1から勉強し直しました。元々スケートで育ったんですけど、札幌での授業はスキーでした。
山田
雪が少なかったり、近くに山がなかったりするエリアはスケートが主流なんだと思います。千歳や苫小牧もスケートでした。一方で札幌のように山が近く、千歳などと比べるとそこまで気温が下がらない地域ではスキー、というように地域性で分かれているのは肌で感じてましたね。
僕からしたら、体育でスキー、スケートがあるのがまずびっくりです。
山田
それが当たり前だと思って育ってるから(笑)。
他の魅力はどうでしょうか?やっぱり食べ物ですかね。
山田
食べ物の話をすると、本当にきりがないですね。海鮮、ジンギスカン、スープカレーなど、挙げればいくらでも出てきます。漁業、農業、酪農といった1次産業が全て盛んなので、何を食べても美味しいんです。素材そのものが圧倒的に美味しいから、どんな料理にしても美味しくなる。それが北海道の食の魅力かもしれません。
【やき弁、シメパフェ…道産子ホットワード】
今回の座談会にあたり色々調べてきたので、ここから少しぶつけていきたいと思います。まず、やきそば弁当が北海道ではめちゃくちゃ有名だと聞いたのですが、やはり根強い人気を誇りますか?
吉田
道民は「やき弁」って呼んでます。みんな、やき弁を食べて育つので、多分ペヤングを食べたことがない人もいると思います。私は大学までペヤングを食べたことがなかったです。
山田
「ペヤングって何?」という感じで。なんなら「なんか響きが悪いな」とまで思っていました(笑)。
吉田
逆に関東で、「やき弁ないの?」って。
山田
そうそう。あのスープが付いているのがやっぱ良いですよね。
吉田
美味しいです。
食事の締めでパフェを食べる「シメパフェ」の文化は本当にあるのでしょうか?
山田
結構最近ですよね?
吉田
最近ですね。「夜パフェ」が若干札幌で流行り出したんです。夜にちょっとおしゃれで、ちょっとお高いパフェを締めに食べるみたいなのが本当に最近流行り出しました。私が高校生の時とかは全然なかったです。
【札幌!旭川!函館!道内に“県”多数】
やはり文化や流行は札幌から広がっていくケースが多いんですかね。そもそも北海道の序列と言いますか、勢力図はどうなっているんでしょうか?
山田
吉田さんはどう感じますか?札幌に住んでいると、やっぱり「札幌1強」という感覚はありますか?
吉田
どうでしょう…あんまり札幌市内にいて序列を感じたことはないですけど…祖母の家がある滝川や倶知安の方面に行くと、「ここでどうやって生活するんだろう?」みたいに思う感覚はあります。あと、札幌を出ると駅がめちゃくちゃ遠いので。
〈ペンギンの散歩で有名な旭山動物などがある旭川。圧巻の雪像が楽しめる冬まつりも毎年大勢の観光客で賑わいます〉
〈函館観光の際は是非とも訪れたい五稜郭。2024年は名探偵コナンの映画の舞台となり、コナンフィーバーに沸きました〉
人口的に言っても1番手が札幌で、では2番手の位置付けはどこになりますか?
山田
2番手は函館?いや旭川か。3番手が函館かな。そこが3強。その後に苫小牧、釧路、帯広辺りが続く感じかな?
北海道は全国的に有名な都市が数多くありますよね。どこもそれぞれの魅力があって、名前が通っていますよね。
山田
そうなんです。なので、道民としてはあまり「序列」という感覚はなくて、それぞれの街に独自の良さがあると思っています。例えば九州に複数の県があるように、広大な北海道では、それぞれの市がある種「県」のような立ち位置なんです。市同士で競い合うというより、「それぞれが独立した魅力を持っている」という感覚に近いかもしれません。
吉田
本当におっしゃる通りですね。
〈道民の心の拠り所セイコーマート〉
【セコマ、ホットシェフ、カツゲン…道産子ホットワード】
あとはセイコーマート、通称「セコマ」も外せないですよね。
吉田
セコマ↑です。セコマ↑
山田
一瞬何のことかと思った(笑)。イントネーション大事!
おっとっと(笑)…セコマ↑は道民にとってどんな存在ですか?
吉田
1番好きなコンビニですね。
山田
模範回答(笑)。分かる、分かる。ホットシェフね。
〈セコマと言えばホットシェフ!中でもカツ丼は超絶品です〉
〈1956年から発売以来、道産子に飲み継がれている乳酸菌飲料、ソフトカツゲンも外せません。長く長く愛されるのが納得の飲みごたえです〉
吉田
そうです!そうです!ホットシェフっていう、ホットスナックが売ってるお料理コーナーがあるんですけど、そこのカツ丼が本当に美味しくて!あとは北海道限定のソフトカツゲン、北海道の素材を使用したスイーツやお惣菜もたくさんあります。全部安くて本当に美味しいです。
山田
しかも安い!本当に最高です。
なんでも北海道の人は冬でもよくアイスを食べるとか。これは本当ですか?
山田
冬の方が食べるよね?
吉田
多分、関東よりもお家の作りが暖かくて。冬でもお家がすごく暖かいので、半袖短パンです。
山田
多分どの家庭もそう(笑)。
〈中南部・石狩平野の南端に位置する人口約9万7千人の街、千歳。新千歳空港があり、北海道の玄関口とも言えます〉
もう1つ、どうしても聞いておきたかったのが、北海道出身を意味する「道産子」というフレーズについてです。元々は北海道産の馬を指す言葉で、あまり良く思っていない人もいるらしいのですが、2人は道産子という呼び方をどう捉えていますか?
山田
個人的には、特に悪い印象はないですね。ただ、そもそも北海道にいる時は、自分達のことを「道産子」とはあまり言わないんです。道外に出てきて、自己紹介の時に「道産子です」と言うことがあるというくらいですね。嫌な気持ちはないよね?
吉田
それは全然ないです。道内にいる時は道産子って言わなくて、自己紹介の時に「北海道出身なんです」って言ったら、「あっ道産子ね」って言われるので、「そうそうそう」って返す程度です。特にそこに劣等感みたいなものは感じてないです。
【マイ・ベスト・ショット・オブ北海道】
道内で撮った、とっておきの写真を紹介してください!
山田
これは僕が世界1位だと思ってるソフトクリームです。地元千歳にある「よんちょ~めソフト」というお店のもので、夏季限定でしか開いてないんです。言葉で表現するのが難しいくらい美味しいんですよ。濃厚というよりはさっぱり系なんですが、でも深みがあって、実は濃厚…自分でも矛盾しているのは分かっているんですが(笑)、それくらい言葉にするのが難しい美味しさです。毎年、これを食べるのを楽しみに夏を迎えていました。
千歳市民はみんな知っている店です。結構種類があって…ハスカップって分かる?
分からないです。
吉田
ハスカップは北海道のフルーツです。
山田
結構酸っぱいからジャムにすることが多くて、そのジャムがかかったソフトクリームとかもあって、これがまた最高なんですよ。
〈北海道に古くから自生している希少な特産果実ハスカップ。アイヌ語の「ハシカプ(=枝の上にたくさんなるもの)」が名前の由来です。7月頃になると2つ1組で実らせます。土産品などでも「ハスカップ味」がよく採用されています〉
吉田さんのベストショットは?
吉田
林ゼミのみんなで、札幌にジンギスカンを食べに行った時の写真です。みんな初めての雪景色だったみたいです。札幌ビール園でクラシックのビールとジンギスカンを堪能しました。北海道民ってあんまりジンギスカンを外で食べないですよね?私は結構お家で食べるイメージです。
山田
そうそう。僕も全く同じイメージです。ジンギスカンは外で食べるというより、家で食べるものという感じですね。
〈北海道のソウルフード、ジンギスカン。道内に有名店がいっぱいありますが、家庭内でも多く消費されています〉
〈研修中に誕生日を迎え、林ゼミのみんなにお祝いしてもらいました(吉田)〉
このゼミの研修で、他の場所は行きましたか?
吉田
基本、札幌しか行ってないんですよね。茨城県の大洗からフェリーで室蘭に行って、室蘭からバスを乗り継いで札幌に行きました。札駅からみんなで歩いてホテルに向かってみたいな流れでした。2日目は自由だったので、それぞれ小樽に行ったり、トリトンを食べに行ったりしていました。トリトンは回転寿司の店です。安くて美味しいので、道内でもすごい人気で行列になっています。
〈運河クルーズなどが楽しめる小樽。歴史とロマンが詰まってまり、ノスタルジー溢れる街並みがたまりません〉
〈JR札幌駅周辺。南口にそびえる地上38階建てのJRタワーからは北に広がる夢が見渡せます〉
ちょっと気になったんですけど、地元民は札幌駅を札駅って呼ぶんですか?名古屋駅を名駅って言うみたいな。
吉田
札駅ですね。JRの札幌駅と地下鉄の札幌駅があるんですけど、JRの方を札駅って言うんですよ。
【北海道に来たら1回どう?】
1番のおすすめスポットを教えてください!有名無名は問いません。例えば、友達が北海道を訪ねてきたら、是非連れて行きたい場所です。
吉田
すすきののブラックニッカのところですかね。ザ・札幌を味わえます。準備しなくても、すすきのを歩いていれば美味しいお店がすぐ見つかるので、景色を楽しみながら美味しいお店を探せます。
山田
ニッカのところは、大阪で言うグリコみたいな感じですよね。
吉田
大通からすすきのまで歩けますし、なんなら札駅からも歩けます。その通りを歩いていけば、テレビ塔も時計台もすすきのも行けます。
〈さっぽろテレビ塔や時計台は札駅から徒歩圏内の上、近場にまとまっており、非常に観光しやすいです〉
山田
札幌の街は碁盤の目状になっているので、とても分かりやすいんです。大通やすすきの、札幌駅がまっすぐ繋がっていますし、地下歩行空間もあるので、雪が降る冬でも天候を気にせず暖かい地下を歩いて移動できます。そういった意味で、札幌はすごく人に優しい、フレンドリーな街だと思います。
山田さんイチオシの場所はどこですか?
山田
僕だったら帯広・十勝エリアに友達を連れて行きますね。僕の地元の千歳からだと、札幌は北西方向ですが、帯広は車を東へ走らせたところにあります。札幌からだと少し距離がありますが、千歳からなら2時間ほどで着けるんです。
帯広の魅力は、なんと言っても食ですね。美味しいお店が本当にたくさんあります。名物の豚丼はもちろん、例えば「ウエモンズハート」という絶品のジェラート店や、「高橋まんじゅう屋」という地元で愛されるすごく美味しいおやき屋さんがあって、僕の中ではもうゴールデンルートが確立されています。ベーグル→おやき→ジェラートみたいな食い倒れルートを巡れば、お腹も心も大満足の旅ができます。
【ライバルは〇〇県】
ライバルだと思っている県、少なからず意識している県を教えてください!一斉にオープン!
山田
やはり沖縄でしょうか。観光が一大産業として確立している点で、ライバルというか、意識する存在ですね。敵対心というわけではなく、日本の北と南の端で、それぞれが独自のブランドを確立していて、島として本土から離れている。その対比が、僕にはライバル関係のように映ります。
あとは都市単位で言うと、札幌のライバルは福岡かなと思います。
吉田
私も福岡と迷いました。
山田
街の規模感とか、食の魅力といった点で、札幌と福岡はよく比較されますし、良いライバル関係にあるように感じます。
吉田さんの答えは「なし」ですね。
吉田
今まで結構色んな県に行ってきたんですけど、やっぱり私は1番北海道が好きです。上京したからこそ、北海道にいた時よりもいない時の方が魅力にすごく気付けます。留学にも行きましたけど、北海道の方が美味しいし、優しいので、北海道が1番だと思っています。
福岡と迷ったとのことですが、ちらっとよぎった感じですか?
吉田
ご飯が美味しいので福岡かなと思ったんですけど、私はあんまりモツが好きじゃないので(笑)。
【ご当地スポーツチーム事情】
〈現在はメジャーリーグで活躍するダルビッシュ有選手や大谷翔平選手ら、数多のスターを輩出している北海道日本ハムファイターズ。2023年に本拠地を札幌ドームからエスコンフィールドに移しました〉
北海道日本ハムファイターズ(野球)、北海道コンサドーレ札幌(サッカー)、レバンガ北海道(バスケ)など道内にスポーツチームがいっぱいありますよね。盛り上がりというか、人気順で言うとどんな感じでしょうか?
山田
やっぱり1番は日ハムじゃないですかね。ダルビッシュ有や大谷翔平といったスター選手を多く輩出しているので。
日本ハムの新しい本拠地エスコンフィールドは行きましたか?
吉田
まだ行けてないです。
山田
僕は行きましたよ。最高でした!開閉式の屋根もユニークで、1回の開閉は約3万円でできると聞きました。球場全体の雰囲気も、どこかアメリカのボールパークのようで格好良かったです。
〈エスコンフィールドに最も近い、北広島駅。徒歩だと20分かかり、やや遠く感じます〉
駅からのアクセスにやや難ありですよね。
山田
そうですね、アクセスは今後の課題かもしれません。ただ、新駅の計画があって、周辺には大学なども誘致されるそうですね。前に行った時は北広島駅からシャトルバスが出てたけど、めちゃめちゃ混んでたな(笑)。
吉田さんは日本ハムの試合を観に行ったことはありますか?
吉田
小学生の時に父の招待チケットで、その当時のホームだった札幌ドームに行ったことがあります。稲葉選手の引退試合でした。その時に確か日ハムが勝って、選手が周りに来てくれて、大谷選手とハイタッチをしたのが私の唯一の自慢です。
レバンガは私が小学生の時に選手が来てくれて、バスケを教えてくれるみたいな授業がありました。
〈日ハムが移転したなか、今も札幌ドームをホームにしている北海道コンサドーレ札幌。元日本代表の岩政大樹監督の下、J1復帰を目指しています〉
コンサドーレはどうですか?
山田
コンサドーレは逆から読むと道産子になるってことぐらいしか知らない(笑)。あんまりサッカーを見ないから。
吉田
試合を見たことはないんですけど、練習場がある白い恋人パークは身近な存在でした。通学で最寄駅の宮の沢駅を使っていたので、ポスターとかをよく目にしていました。
【声に出して読みたい北海道弁】
方言はどうですか。先ほどセコマのイントネーションをレクチャーする一幕がありましたが、逆に友達から「イントネーションが違うよ」って言われたりしますか?北海道弁で有名なフレーズだと「なまら」ですかね。
吉田
「なまら」は言わないです(笑)。
山田
「なまら」はふざけて使うくらいですね。僕が自然に使ってしまう方言だと、「雪をほろう」という言葉があります。「雪をはらう」という意味なんですが、上京するまでずっと標準語だと思っていました。そうやって、実は方言だったという言葉が結構ありますね。
吉田さん的にはどうですか?
吉田
「私、訛ってた?」ってなることがよくあって、大学でこっちに出てきて気付きました。関東の人は「コー→ヒー→」って言うんですけど、北海道の人は「コー↓ヒー↓」なんですよね。あとは「ほくろ→」とかも「ほくろ↓」なんですよね。
〈酪農が盛んなだけあり、乳製品の種類は非常に豊富です〉
山田
「幼稚↓園」とかもね。「幼稚園→」じゃないんだよね。あれ?「幼稚園→」か。どっちだ?どっちが正解か分からなくなる(笑)。こうして分からなくなってしまうのも「北海道あるある」かも(笑)。関西弁の「~やねん」とか博多弁の「~ばい」みたいに、語尾に特徴があるような可愛げはないんですよ。だから東京で「北海道出身でしょ、方言で喋ってみて」とリクエストされても「いや、何にも面白いのは出ないよ」ってなってしまいます(笑)。
【輝く!道民スター栄誉賞】
道民のNo.1スターを決めましょう。1位を決めるにあたって、それぞれ候補を挙げてください。もちろん「俺!」「私!」でもいいですよ。
山田
うーん、色々な方がいますよね…。
吉田
大泉洋さんですかね。タカアンドトシとかもちょっと思ったんですけど、やっぱり大泉さん。
道内での大泉洋人気は抜群ですか?
吉田
そんなこともないですけど(笑)。
山田
当たり前に出てるぐらいの感じかもしれない。「水曜どうでしょう」はめちゃめちゃ有名で面白いです。
僕個人としてはGLAYを挙げたいですね。函館が生んだ大スターです。世代的には少し上かもしれないけど、北海道で知らない人はいないと思います。あとは、やっぱりタカトシ。やき弁のCMにも出ていますし、道民にはお馴染みです。平成ノブシコブシの吉村さんやバービーさんも北海道出身ですよね。
では1位を決めますか!
山田
じゃあ、大泉洋さんでいきましょうか(笑)。やはり「北海道といえば」という存在ですし、「上の世代だけでなく、若い世代も含めて全道民に知られている」という点で、まさにNo.1スターだと思います。
〈パート3まで作られている大泉洋さん主演の人気シリーズ「探偵はBARにいる」。2017年2月10日~3月10日まで札幌でロケが行われ、秋元克広市長が撮影に参加しました。(C)札幌市〉
すすきのが舞台の名作、「探偵はBARにいる」の主演も務めていますしね。
吉田
母がその作品のエキストラで北川景子さんに会ったって言ってました!
おっ!シリーズ3作目ですね。羨ましいなあ。素敵なエピソードをありがとうございます。ラストスパートとして、北海道あるあるをもう少し掘り下げたいです。他に「北海道ならではだな」って思うものはありますか?
【北海道あるあるもうちょい言いたいよ】
山田
ごみ捨て場のこと、なんて言いますか?北海道では「ごみステーション」って言うんですよ。
聞いたことがあります。「ごみは投げるもの」なんですよね。
以前、山梨出身のいとこが遊びに来た時、車の中で「このごみ投げといて」って頼んだら、本当に窓から外にポイっと捨てようとして(笑)。慌てて止めたエピソードがあります。
〈北海道のごみ捨て事情は他県と少々異なります〉
ごみステーションは吉田さん的にも納得のあるあるですか?
吉田
はい。三重に引っ越した時に、誰もごみステーションなんて言ってなくて、びっくりしました(笑)。
山田
それと北海道ならではか分からないけど…上京したての頃、チーム分けをする時に「グーとパーで分かれよう」と言われて、意味が分からなかったんです。北海道では「グーとチー(チョキ)」で分かれるんですよ。
吉田
私も「グッチー」でした。
山田
「グッチー」ね。これが東京で全く通じなかったのは、本当にショックでした。普通にチョキを出したら「ふざけるな」と怒られて(笑)。これは北海道大学に通っていた友人の話ですが、北大は学生の7割が道外出身者なので、多数派の「グーとパー」が主流になりかけたそうなんです。でも地元の友人は「『郷に入っては郷に従えだ』と主張して、周りに『グーとチー』を徹底させた」と笑っていました。
〈旧帝大の1つに数えられる名門、北海道大学。札駅から徒歩7分でアクセスもピカイチです〉
〈どん兵衛にも北の味を追究した限定品が存在します。違いを楽しむのも一興です〉
吉田
あと、またご飯の話になって申し訳ないんですけど、味付けがちょっと甘めです。赤飯は小豆じゃなくて甘納豆なんですよね。それに赤いきつねと緑のたぬきは、北海道は味が違うんですよ。
山田
え?知らなかった。
吉田
あんまり大々的には言われてないらしいんですけど、北海道の赤いきつねは甘めに作られています。あと私が作ったご飯を関東の子が食べると「甘い」って言うんです。
山田
道民にしてみれば、赤飯といえばもう甘納豆のもの以外は考えられないですね。
吉田
分かります!私も甘納豆が好きです。
〈さっぽろ羊ヶ丘展望台で世界中の人々を出迎えている北海道開拓の父、クラーク博士。Be ambitiousな生き様が人々の心を燃やします〉
【道産子よ、大志を抱け】
北海道愛がびしびし伝わるトークをありがとうございました!なまら有意義な会になりました。最後に、誇るべき故郷のさらなる発展に向け、熱いメッセージをお願いします!
吉田
なんと言っても自然が豊かなので、やっぱりこの自然は保持してほしいです。観光客がたくさん来て、冬の時期とかは札幌がごった返すんですけど、人の温かさや、地元にしかない自然の豊かさを皆さんにもっと感じていただければと思います。
山田
少し熱く語らせてください。僕は「北海道は世界でもトップクラスになれるポテンシャルを秘めている」とずっと思っています。1度地元を離れて東京やニューヨークといった外の世界から故郷を見ることで、その思いはより一層強くなりました。今日話に出た「食」は、間違いなく世界に誇れるものですし、観光資源にしても、本当に見どころが尽きません。最近ではワインやウイスキーの生産も盛んになり、新たなブランドとして確立されつつあります。掘り起こせば、まだまだ素晴らしいものが眠っているんです。
ただ、道内にいると、その本当の価値に中々気付けないのかもしれません。眠っている魅力をさらに掘り起こし、効果的に発信していくことで、北海道の価値はもっと高まっていくはずです。僕もその手助けが少しでもできたら嬉しいなと思っています。
〈北海道を盛り上げるために書いているnoteです。世界基準の国際都市として変化していくために、どんなことを考えていく必要があるのか一緒に考えていきましょう!(山田)〉
アカデミー賞、グラミー賞と並んで世界3大コンテストの1つに数えられる、権威ある「青学同窓会HPアワード」でウェブマスターを受賞しました!2021年度の新人賞、2022年度のジャンプアップ賞に続いて3度目のタイトル獲得です。
正直言います。今アワードに何種類の賞があり、ウェブマスター賞が序列的にどの立場なのかは分かりません。ただ1つ確かなのは…とんでもなく名誉であり、タイトルを獲り続けられるよう、HP運営により磨きをかけていくということです。
これからもどうぞ、通常の3倍ご期待ください!ほいたらね。
一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は特別編として、OBの有園僚真さんが現役の林ゼミ生からインタビューを受けました。
Colour4 地球社会共生学部・1期
【GSC一期生に当時の様子聞いてみた!-番外編-】
「俺がこの学部を作っていくんだ」──そんな覚悟で飛び込んだ、たった一度のチャンス
GSC(青山学院大学 地球社会共生学部)の第一期生、有園さん。現在はスポーツ記者として全国を飛び回る彼が、学生時代を振り返りながら語ってくれたのは、「前に敷かれたレールには乗りたくなかった」という、強い自立心だった。
「昔から、他の人とは違うことをしたいって思ってた。学部の一期生になれるなんて、そんなチャンス誰でもあるわけじゃないでしょ? ここなら、自分で学部を形にできると思ったんだよね」
📍“相模原キャンパスで4年間過ごせる”という点も、実は決め手の一つだったとか。そうした等身大の理由と、直感的な「ビビッときた」というインスピレーションが重なり、文学部からの方向転換を即決。滑り止めとして受験した学部もあったが、合格通知を受けたのはGSCただひとつ。「これはもう運命だった」と笑って話してくれた。
🌏 学生時代のGSCでは、自由度が高い一方で、自発的に動くことが求められる環境だったという。
「英語が勝手にペラペラになるわけじゃない(笑)。でも、留学生も多かったし、ネイティブの先生と話せるラウンジもあった。環境は整ってたけど、それを使うかどうかは自分次第。“使い倒せる人”にとっては、これ以上ない学び場だったと思う」
そんな経験が、今の記者としての仕事にも確実に活きているという。
「受け身じゃなくて、自分で“取りにいく”姿勢。あれはGSCで身についたもの。社会に出たら、その力がほんとに大事になる」
🧭後輩たちへ伝えたいのは、「中途半端な自由の中で、自分で選択して動ける力を育ててほしい」ということ。
「この学部って、放っておかれる自由もある(笑)。でも、そこでどう行動するか。結局最後に決定権を持つのは、学生自身なんだよね。それがGSCの面白さでもあるし、厳しさでもある」
🎤「俺がこの学部を作る」
その熱は、卒業しても冷めることなく、今もGSCを心から愛する卒業生の一人として燃え続けている。
#青山学院大学 #地球社会共生学部 #GSC #一期生の声 #挑戦する学び #学部を創る #自分の道は自分で切り開く #自由と責任 #非認知能力 #スポーツ記者の原点 #自発的な学び #行動する力 #受け身じゃない大学生活 #相模原キャンパスライフ #俺がGSCをつくる
一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は特別編として、OGの石田志歩さんが現役の林ゼミ生からインタビューを受けました。
Colour3 地球社会共生学部・1期
【GSC一期生に当時の様子聞いてみた!-番外編-】
「旅って、自分に出会えるきっかけなんじゃないかな?」
そう語ってくれたのは、青山学院大学 地球社会共生学部(通称:GSC)OGの石田さん。国際系高校を卒業後、「地球」というワードに心を惹かれ、直感でこの学部への進学を決めたという。
「ここなら、新しい何かが見つかるかもしれないって思ったんだよね」
入学してみると、想像以上に刺激的な毎日が待っていた。英語での専門講義、異なる価値観を持つ仲間たちとの出会いーー「高校と大きなギャップは感じなかったけど、むしろワクワクすることが多かった」と笑顔で振り返る。
特に印象的だったのは、自分たちが一期生だったこと。「何もかもが真っ白な状態で、文化も自分たちで創れる自由さにワクワクした。でも、いざ始めてみると、それってすごく難しいことだった」と、本音ものぞかせた。
🌏タイでの留学生活
「やったことないことを、やらなくちゃ」
その思いを胸に、現地の大学に通う傍ら、彼女は現地でマッサージ資格の取得に一人で挑戦した。
「不安はあったけど、まずは動いてみる。行動すれば、世界は必ず広がるから」
挑戦を繰り返すたびに、「自分で選んだ人生」が輪郭を持ちはじめる。その旅の途中に、彼女はきっと何度も、“今の自分”に出会ってきたのだろう。
🧭「未知の道は、自分を知る道だった」
そんな彼女が学生に伝えたいのは、“今だからこそ行ける場所がある”ということ。
「社会人になったら、物理的にも心理的にも行ける場所と行けない場所ってあると思う。時間がないことを理由にやらない選択をしたくないけど、学生のうちは、その選択をしなくてもいい可能性が高い。だったら、やってみた方がいいよね」
その言葉には、“今を逃さないでほしい”という、心からの願いがこもっている。
#青山学院大学 #地球社会共生学部 #GSC #旅する学び #非認知能力 #ゼミのある暮らし #留学生活 #タイ留学 #自分探しの旅 #一期生の挑戦 #未知への一歩 #やったことないをやる #学びのフィールドワーク #自分に出会う旅 #学生の特権
一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。
Colour2 文学部卒
あまりに遠くて、あまりに――後世に語り継がなくてもいいかもしれない厚木キャンパス伝説
皆さんは厚木キャンパスをご存知でしょうか。決して伝説のポケモンなどではありません。それは確かに存在していたのです。山の上に。その生き証人の1人が岡田純一さんです。渋谷で5時、ではなく1時に待ち合わせをし、実態をヒアリングしてきました。
〈1982年から2003年まで存在した自然と共存型の厚木キャンパス。各学部の1・2年生が通っていました〉
――本日は厚木キャンパスの実態解明のため、お越しくださりありがとうございます。まずは自己紹介をお願いします。
東京の新宿出身です。幼稚園から青山学院に入り、大学の学部は文学部教育学科です。そのまま大学院にも進み、ドクターコースまで行って、学生としては4歳から30歳くらいまで青山学院でお世話になりました。
――名前が元V6の岡田准一さんと一緒ですよね。よく言われますか?
向こうもいい年になったし、知らない子が増えてきたかな。まあでも、よく自己紹介の時に「病院や銀行に行くのが嫌です」って話すんだけど…あっちは芸名だし、漢字も若干違うしね。
――岡田さんがすごいのは、幼稚園から長く青学に携わっていることですよね。ここまで縁が切れないのは、中々珍しいですよね。
高等部の代表幹事だったんです。1学年500人弱の学生がいるんだけど、代表が2人置かれるようになっていて、それを友人に懇願されて24歳から10年間務めました。当初は院生で、学生をやりながら始めて、スタート時に「10年しかやらない」と宣言して、その通りに34歳になって辞める時に、これでもう青学と縁が切れるのかなと思ったら、そのまま今度は大学の教壇に立つことになり、その後大学の同窓会や、校友会の委員・役員などを務め、青学との縁が切れないまま、ここまでずっとって感じになっています。現在は校友会大学部会の副部会長を任されており、主に広報を担当しています。これにより、青山キャンパスにはよく足を運んでいます。ここ2年、学位授与式や入学式においてフォトスポットを設置しているので、機会がありましたら是非訪れてみてください。
教育学を専攻してきて、社会教育や生涯学習が専門分野ですが、教員免許は幼小中高で全部持っているので、教職関係なども教えることがあります。けれども専門分野に関連して学芸員や司書、社会教育士の専門課程の科目を持たせてもらうことが多く、その関係で今日のテーマの厚木キャンパスにもキャンパスがラスト1年の時に教えに行きました。学生として通っていたのは1985年度と86年度です。厚木キャンパスができたのは1982年だから、できたばかりで綺麗だったのかもしれないけど、別にそれが嬉しかったわけではなかったです。
〈2025年現在の本厚木駅周辺の様子〉
――以前、高校時代に「厚木キャンパスツアー」に無理やり参加させられたと話していましたね。
私達が全然危機感がないってことで、高校3年になった時に、高等部の先生に「お前達、来年から厚木に通うんだよ」って言われて。でも自分達は「きっと誰かがどうにかしてくれるだろう。行かなくて済むだろう」と思っていました。
厚木なんて、人から言われてるだけで、そんなに意識はしてなかったなかで、高3の6月30日に高等部からバスで本厚木駅まで連れて行かれました。相当時間がかかった感じがしました。その日は土曜で、クラブ活動を休んで本厚木駅に行ったら、「まだここは学校じゃない」と言われて。「どこにそんな学校が…本当にあるの?」なんて言ってました。みんな相当青ざめていて「本当にここまで来ないとならないの!?」っていう、そんな状態でしたね。駅の切符売り場に掲示されている路線図を眺めている友人もいましたが、私はそれすらできず、呆然としていました。
――そのツアーで厚木キャンパスを初めて見た時の第一印象は覚えていますか?
もうね、駅に行ったことぐらいしか覚えてなくて。あの時、学校のキャンパスまで行ったかどうかも…みんなショックすぎて。「ここの駅はなんだ!?」って。「新宿から急行で1時間?はっ?」みたいなね。それで「ここからまだ歩いていけない」っていう。それまで初等部から高等部までも、新宿の実家から渋谷に通うには遠いと思っていたんだから。
〈正門から事務管理棟へのメインストリートは、青山キャンパスと共通のイメージを持たせるため銀杏並木になっていました〉
――ここから厚木キャンパスを深く深く掘り下げていきたいと思います。悪いところがたくさん出てきそうですが、まずは良いところを教えてください。
いや、良いところを考える思考がないんです(笑)。嫌で嫌でたまらなかったから。良いところは本当に考えられないよね。何が良かったんだろう…本当嫌いだったもんね。
――何が1番嫌でしたか?
まず遠い。遠いと結局、朝、今まで経験したことのない時間に起きなくちゃいけない。高校生より早起きしなくちゃいけない。何時だったかな…当時1限の開始が9時20分だったから、6時台には家を出ていたと思う。
実家は最寄駅までバスで行かないといけなかったので、新宿までバスに乗って、そこから小田急線で本厚木に行っていました。
本厚木からは神奈中バスで、スクールバスじゃなくて、市民の人も乗ってくるから、ぐるぐる回るんだよね。多分1時間弱くらいかかっていました。直で行ってくれると、15分とかで着いたんじゃないかな?
――本厚木駅からのバスの料金はいくらでしたか?
当時片道310円で、回数券で乗っていました。週5日で通学しても定期券より回数券の方が安いので、しょっちゅう回数券を買う羽目になっている感じでした。
〈厚木キャンパスを語る上で、神奈中バスの話題は欠かせません〉
――バス以外に、例えば駅から自転車で通っている生徒もいましたか?
自転車は無理です。山の上だから。当時、駅に自転車が置いてあって「これ誰でも乗れます」みたいなシステムは全くなかったし、あったところで体力的に厳しいです。
――当時、電動自転車なんてないですもんね。原付や車で通っている人はいましたか?
車はいたと思う。車通学OKだったと思います。
――生徒も厚木キャンパスの駐車場に駐められたんですか?
うん。原っぱじゃないけど、キャンパスに隣接した空地に駐めていました。
〈体育館は全天候型。大きなガラス面は周囲の自然を映し出し、緑豊かな景観の中で若いエネルギーを発散することができました〉
――身近に、車で通学している友人はいましたか?
いたけど、渋滞にはまっちゃったりしたら、授業に遅れて行くことになるので、乗せてもらったことはほとんど記憶にないです。1回だけ…教職を取っている関係もあって、土曜日の授業が毎年あったので、土曜に自宅から車を出しました。その後にアドグル(アドバイザー・グループ)で山へ行く予定もあったので。その時にもうめちゃ渋滞して、本当に酷くて。当時カーナビがないから、田舎道で道に迷い、すっごい遅れて、授業が終わりも終わりのところで4時間ほどかかってようやく辿り着きました。
――先生達は車だったんですか?
先生方はスクールバスに乗れたんです。だから、厚木キャンパス最後の1年で私が教えていた時だけは、それに乗らせてもらえました。
――そもそも厚木キャンパスに通っていたのは、何年生の時ですか?
1、2年生の時です。
――3年生になって青山キャンパスに移ってからは、厚木キャンパスに行く機会はありましたか?
全くないです。2度と行くことのないように、ちゃんと厚木のものは全部取りこぼしのないようにやっていました。もう2年生の頭の時に「この時にこれを取る」って卒業までの履修の仕方を全て決めていたので。4年間で210ぐらいの単位を取りました。
〈学生と教職員の研修施設の場だった厚木セミナーハウス。キャンパスから徒歩3分の近さでした。様々なゼミ合宿が行われ、授業だけではなく学生と先生の交流の場としても利用されました〉
――卒業してからはどうでしたか?
院生の時は、ゼミとかのサポートをするので、行く機会がありました。キャンパスの片隅にセミナーハウスという宿泊施設があったので、「行きたくない…」って思いながらゼミ合宿などについて行かされたりしました。「厚木」って聞いただけで拒否反応が出る感じだったので。
それの手伝いの他に、叔父・叔母があの辺に住んでいたので行ったこともあるし、日産の研究所になってからキャンパスの前を通ったこともあります。
〈厚木キャンパスの跡地には、日産先進技術開発センターが建っています〉
――単純な疑問なんですけど、みんな青山キャンパスや相模原キャンパスを「青キャン」「さがキャン」と呼びますが、厚木キャンパスの愛称はやはり「厚キャン」でした?
「厚キャン」とは呼んでなかったです。「厚木」って言っていました。愛称を付けたいとも思わなかったです。
――キャンパスの広さはどうでしたか?
すごい縦長っていうか、横長っていうか。変な形でした。だから移動が大変で、本当によく体育の先生には「遅い!」って怒られていました。体育とかは正門の入口や、正門を出て横断歩道を渡った道の反対にあった施設を使っていたと思うけど、英語とか語学系は正門から真逆の場所。当時の建物はエレベーターとか何もなかったから、全部階段で行かなくちゃいけなくて大変でした。
〈日産先進技術開発センターと道路を挟んだ先にある日産厚木総合グラウンド〉
英語の先生がいつもギリギリまで授業をやって、当時休み時間は5分だから、5分で移動は物理的にもう絶対無理なので。着替えもしなきゃいけないし。でも体育の先生は「なんでお前達はいつも遅いんだ!」って。別に遅くしてるつもりはないんだけど。絶対無理でした。
――他に厚木キャンパスならではの、あるあるはありますか?
水曜日と土曜日の授業がめちゃくちゃ少なかったので、自分は水曜日だけ行かないで済んでたんだけど…その水曜に、青キャンだと学食ではフルーツとして出るのがオレンジぐらいなところ、「メロンが出た!」って自慢していた子がいました。でも私は「学校に行かない方が絶対いい!」と思っていましたね。メロンは羨ましいかもしれないけど、「厚木で食べるメロンは別にどうでもいい」みたいな(笑)。
〈いつも学生で賑わっていた食堂。若い人向けのメニューが豊富で、手ごろな価格でした〉
――だからとにかく、厚木に遠征する日に授業を集中させて、いかに行かない日を作るかってことですよね。
ショックだったのが、「1年の時に頑張って土曜に出たら、2年で行かなくて大丈夫になる」って先輩から聞いていたのに、なぜか自分達の年から金曜にあった科目が土曜に行っちゃって。「1年生の時、楽しとけば良かった」って思いました。
〈今も存在するスーパーマーケット三和(SANWA)森の里店〉
――キャンバス近くのよく行っていた馴染みの店はありましたか?
周りに店はないです。スーパーが1軒あったかな。「三和」っていうスーパーが1軒あったけど、そこも山を下りて行く感じです。キャンパスのすぐ下には松蔭女子短期大学(現・松蔭大学)のキャンパスがありましたね。
――厚木キャンパスの中には、学食の他にコンビニみたいな店はあったんですか?
購買会があったね。まあ、空きコマを作ってもどこも行くところがないから、みんな割とびっちり授業を取ってました。
〈学内での福利厚生設備として、E館内での購買会では、勉学・スポーツに必要な書籍・衣類・日用品を市価より安く購入できるよう配慮されていました〉
――イメージなんですけど、山の中にあるので虫が多そうです。
それはあんま感じなかったかな。ただ空気は良くて、バスを降りた瞬間、「田舎に来た!」っていうような香りがしていました。でも、それも「良くない」って思っていましたね。新鮮な空気が漂うことにさえ、ムカついていました。
〈理工の学生が通っていた世田谷キャンパスの全景と周辺の様子〉
――他のキャンパスと比べて見えてくることもあるのかなと思います。以前は、祖師谷大蔵にもキャンパスがありましたね。
世田谷キャンパスね。世田谷キャンパスは1回だけ行きました。結局、理工の人達だけのキャンパスだから、自分達は全く関係ないので。そこは駅から歩けるんだけど、ちょっと遠くて、車通りが多い細い道も歩かなくちゃいけなかったみたいです。
――青山キャンパスと比べてどうですか。比較した時に「意外と厚木良いな」って見えてきたりしないですか。
しないです。全然もう距離感が違うし、私は幼稚園から青山だったから。
「1回でいいから青山キャンパスの授業を受けたい」って言って、私の教職科目を取りに来た理工学部の子もいましたね。私が「あれ、理系の子ってどうしてんだ?ここで取るんだっけ?」って言ったら「いや、わざわざ来てるんです」って。理系は1年生だけ厚木を経験して、それ以降は世田谷キャンパスだったんです。
――当時の気持ちになって、自分の好きな場所にキャンパスを作って、そこに通えるとしたらどこが良かったですか?厚木じゃなかったらどこでもいいって感じだと思うのですが…。
やっぱり、駅から歩けるところが良かったなと思うよね。何をするにもバスを使わないと帰れなかったですしね。
〈厚木祭は地域との触れ合いを大切にし、地元の人達が参加できる形で開催されました。キャンパスの中央を走るミニSLやフリーマーケットは、子供達や地域の人達から人気がありました〉
〈厚木市役所や近隣の大学、企業の方々も招いた「厚木キャンパスお別れ会」がウェスレーチャペルとE館で行われました〉
――厚木キャンパスは2003年に21年の歴史に幕を下ろすことになったわけですが、なぜ閉鎖したのでしょうか?
受験倍率が下がってきたり、人気もないし…私たちの声が届いたのでしょうか。でも、工場等制限法の廃止による影響が大きかったのでしょう。都心回帰はこれからも進むと予想されていますね。
経営的にも倍率が下がると大変なことになるし、厚木を良く言う人がいるんだったらいいんだろうけど、住所も厚木市森の里青山1-1で、学校が無理やり付けた住所みたいになってるし。
森の里という地名があって、そこに大型の住宅地が作られたようです。そこに移住してきた人もたくさんいるんだけど…モノレール建設が言われていて、駅からモノレールが通るから便利に生活できるし、通えるって話だったらしいけど、結局その目途が全く立たなかったんです。
スクールバスがなかったことについての噂話では、「パイプオルガンを作ったからだ」とも言われていました。厚木キャンパスの礼拝堂にドイツからパイプオルガンを入れて、お金がかかったから。ちなみに今、相模原にあるパイプオルガンは厚木から持って行ったものなんです。
〈厚木キャンパスにあったウェスレーチャペル。使徒ヨハネ像の建つ円形の池を中央に、左右に教室棟が並んでいました〉
〈相模原キャンパスのチャペル内にあるパイプオルガン。厚木の名残を感じられます〉
――数々の貴重な証言をありがとうございました。その他に印象的なエピソードがあれば、最後に是非教えてください。
帰りのバスで暴動が起きそうになったことがありました。5限が終わると18時手前ぐらいで、行列でバスに乗ります→乗りました→酷い大渋滞です。結局、本厚木駅に着いたのは20時半とかでした。2時間半ほど、通常の3倍くらいかかったことがありました。だからバスの中でみんな腹が減るわけです。ずっと授業してきて疲れてるし。でもバスの中では何も食べられません。バスは全然進まなくて、もう限界です。「なんだこれは…」みたいな感じでした(笑)。やっぱり色んなことがありましたね。
1番切なかった思い出は、2年生の時のある月曜日です。3コマの講義が予定されていましたが、遥々キャンパスに辿り着き、正門近くにある休講ボードを見て唖然となりました。なんと3コマとも休講だったんです。私達が学生の頃は、先生方が休講にすることはよくあって、補講などの必要もなかったため、数回しか講義がなく終わってしまうこともありました。
休講かどうかは、キャンパスに掲示される休講ボードを確認しなければ分かりません。携帯電話はなく、自分で確認する必要があり、このような悲惨な出来事が生じてしまうのです。本厚木から乗ってきた同じバスに乗り、再び本厚木へ向かった時は、「今日は交通費だけ払ってなんて日だ!」と、どこにもぶつけられない感情になり、とても切なくなりました。
〈厚木キャンパスはなくなりましたが、その記憶は永遠に残っています〉
5月30日、11月に行う地球社会共生学部10周年記念行事に向けて相模原キャンパスで取材、撮影をしてきました。
あいにくの雨、電車遅延。悪条件が重なり、久々に母校に帰る道中、「今日は一体どうなるんだ!?」とかなり不安を覚えましたが、杞憂に終わりました。9時過ぎから14時前まで約5時間、キャンパス内や淵野辺駅周辺を歩き回り、走り回り、計画していた全てのプランを実行できました。
学生や教職員へのインタビュー、学食調査、超人気ドラマのパロディー撮影…とにかく盛り沢山でした。これから半年かけてじっくりと編集し、インスタグラムアカウント等で随時公開していきます。皆さん、相当ハードルを上げて期待していてください。高ければ高いハードルの方が越えた時気持ちいいですから!地球同窓会の終わりなき旅は続きます。
一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。
Colour1-3 地球社会共生学部・元教授
【#1「あの時、あの前、あの後――未知のウイルスとの遭遇から5年、船中の当事者に訊く」】
【#2「長野生まれ、西宮育ち、青学大出身。世界中を飛び回った国際開発金融マンが新学部の初代教授になるまで」】
学部名の由来は?地球の長所・短所も熱く厚く掘り下げる!必読エピソード大連発!
2015年に産声を上げた青山学院大学・地球社会共生学部は、2025年に10周年を迎えます。それを記念した特別プログラムの一環として、2015年から1期生が卒業する2019年まで教授を務めた橘田正造先生に、住居を構える藤沢でインタビューを実施しました。
横浜国大や筑波大での教授経験を持つ、橘田先生が思う地球ならではの魅力、ここからさらに伸ばしていくべき部分は?貴重な情報が満載!地球生なら必読のエピソード大連発です。
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【新設学部のネーミング秘話】
――そもそも「地球社会共生学部」って、中々珍しい学部名ですよね。
英語の「SCHOOL OF GLOBAL STUDIES AND COLLABORATION」はすぐに決まったんです。開設準備委員会の第1回目ではないですが、早々に「これで行きましょう」って。問題は日本語です。もう既に青学には国際政経はあるし、早稲田にも国際教養がある。基本的にリベラルアーツだから、国際教養でもいいんだけど、既にあるわけです。それから総合政策は、慶應にも関西学院にもあって、あちこちにある。
そんな時に桑島先生が「『地球』はどうですか。まさにグローバルです」って。それで他の先生方も「あっ良いですね」と。それで誰かが「『共生』ってどうですか。この学部は、どうしたら共生できるかを学ぶところだから」と。「地球」「共生」「社会」が来て、あとは順番ですよ。地球社会共生か、地球共生社会か。最終的に地球共生社会は落ちて、さらに日本国内の大学に似た名称の学部はないか詳細に確認したりして、学部の日本語の方の名前はだいぶ遅れて決まりました。
――2015年4月に開校したわけですが、学部名は具体的にいつ決まったんのしょうか?
パンフレットを作らないといけないし、ホームページにも書かないといけないから…自己推薦や学校推薦も始まっちゃうし。だから2014年の夏休み前じゃない?
覚えているのが、「夏のオープンキャンパスで模擬授業をしてください」と言われて、青山キャンパスの新しい建物の大講堂で話をしたんです。その時にはもう日本語の名前も決まっていたから…6月くらいには決まっていたんじゃないかな。英語の学部名称は本当にすぐ決まったんですよ。
幸先が良かったのは、2015年1月、箱根駅伝の優勝です。あの時点で、青学が箱根で優勝するなんて誰も考えてないから。気配もない。みんなびっくりしたんだよ。しかも皆さん気が付いているか分からないけど、連覇したのは2019年の正月までなんです。1期生が入学して卒業するまで優勝し続けたのです。2020年は優勝していないんですよ。
【筑波大学にあって、地球にないもの「そういうところに差が出てくるのかな」】
――地球のどんなところが好きですか?
正直言うと…青キャンって色んな学部があって、以前は短大もあって、歩いている学生が男性も女性もやはり派手なんですよ。できる子ももちろんいますが、チャラく見えるわけです。でも淵野辺のキャンパスには、そういう学生はいない。本当はいたのかもしれないけど(笑)。理工学部、社会情報、それとうちでしょ(※2019年にコミュニティ人間科学部が新たに誕生)。1番勉強しないのは、地球かなと思っていたんだけど、そうでもないでしょ。だから本当に、見た目的にもチャラくなくて、非常に真面目に授業に取り組んでいる学生が多くて、それに驚きました。良い意味で予想外でした。
――逆に足りない部分は?
私は筑波大学の学部でも教えていたんですよ。同じようなテーマのレポートを課すと、筑波大学の学生達の方が本当に食らいついてくる感じがしました。「難しいだろうな。半分ぐらいしか、良い点を取れないんだろうな」と思う課題を出しても、まだインターネットのない時代だったなかで「どこで調べてきたんだろう」って感じで、ほぼクラス全員がちゃんと食らいついてきました。いっぱい考えてきたのは読めば分かるからね。
もちろん地球にも、ガッツがあって、食らいつく学生はいるんだけど、最後の方で諦めてしまう感じは結構ある。そういうところに差が出てくるのかな。
でも自分も、エラそうなことは言えない経験があるんですよ。青学を卒業する4年生の時に、自分は経済学部だったから法律関係の単位をいくつか取らないといけなかったんですよ。で、何単位か取ったんだけど…名前を書いたら「可」を貰えると噂の法律の授業があったんです。それじゃまずいだろうと思って勉強して、ペーパーテストを受けたんだけど、2問あって、1問はまあまあ書けたけど、もう1問は全然書けませんでした。それで怖くなっちゃって。
当時、大学院は大学を卒業してから3月の受験で一発勝負なんです。卒業していないと大学院に入れないから、「ひょっとしたら駄目かもしれない」ってドキドキで。先生の研究室に行って、「大学院を受験するのでなんとか卒業したいです」と懇願しました。
本人の経験もあるので、エラそうなことは言えないけど(笑)。まあ、それ以外は…ゼミでもみんな良くやってくれたしね。
〈1期生の卒業式後、青山キャンパスの近くで卒業記念パーティーが開かれました〉
【定年を2年オーバーして、1期生と一緒に卒業したワケ】
――地球を去ったタイミングは1期生の卒業と同じ2019年3月でしたね。
青学って68歳で定年なんですよ。だから本来は2017年3月で定年だったんです。なので、2016年の夏に平澤先生の部屋に行って「来年、定年の68歳になります。(自分が定年して枠が空く分)公募になるので、私と同じ専門分野で優秀な先生を何人か知っているので声を掛けていいですか?」って聞いたら、平澤先生が「何を言ってるんですか!」って。
実は文科省の規則で、新しい学部を作ったら、その学部の1期生が卒業するまでカリキュラムを変えちゃいけないので、先生を変えられないんです。だから「橘田先生には1期生が卒業する時に一緒に辞めていただきます」と。それで仙波先生も平澤先生も岡部先生も、みんな同じタイミングで辞めました。なので僕は定年を2年オーバーして、GSCで4年間勤めました。
〈2018年夏に行ったゼミ生達とのインド研修ツアー。古都ジャイプール近郊では現地インド企業、JICA事業、現地NGO等への訪問のほか、観光地巡りやラジャスタン料理を楽しみました〉
【東大や京大ではなく、青学の卒業生でなくてはならない】
――地球で最も印象に残っている思い出やエピソードは?
どの授業も愛着を持っているんですけど、その中でも私が平澤学部長の了承を得て企画した科目「世界の青学」が印象に残っています。最大の特徴は、毎週講師が変わるオムニバス形式の授業で、講師は全員青学大の卒業生なんです。グローバルに活躍している私の教え子や知り合いに声を掛けて喋ってもらいました。外務省の大使を務めた人だったり、世界中を飛び回って活躍している人を呼んで話をしてもらいました。
なぜあんなことやったかというと、「国際的、グローバルに活躍する人材に」と言われても、地球に入って間もない学生は、世の中にどんなグルーバルに活躍する仕事があるかも知らないし、4年間これからどういう勉強したらいいか分からないからです。「グローバルに活躍する」と言っても、何を勉強したらいいかも分からない――そういう学生に、「グローバルに仕事をする時の選択肢として、こういう仕事があるよ」と伝えたかったんです。
自分が高校を卒業して大学に入った頃は、「国際的な仕事したい」と思っても外交官か商社しか頭に浮かびませんでした。だから、「『グローバルな仕事』と言ったら、実はこんなに選択肢がありますよ」と伝えたかったんです。東大や京大を卒業していなくても、「青学卒でそんなに活躍できるのか」と思う子もいるんじゃないかと思って、「あなた達の先輩でこんなに世界で活躍している人がいるんだよ」と知ってもらいたくて、青学卒の人達に声を掛けました。
地球社会共生学部はできたばかりだから、学部の卒業生じゃないんだけど、「青学の後輩にそういう話ができるのであれば、喜んでやります」と言ってくれた教え子や知り合いの人達がたくさんいて、講師を喜んで引き受けてくれました。
初年度は、受講生は30人ぐらいでした。だけど2年目に70人になり、翌年に170人になりました。毎年のように受講生が増えて、今現在この授業で触発された人達がグローバルな仕事に就いています。
東大や京大を卒業してグローバルに活躍している人達が講師で話をしても「それはそうだろう」と思うけど、青学の先輩達が気軽に後輩に話す語り口であれば、「あんなお兄さんやお姉さんでもできるのか」「あんなおじさんでもできるのか」「じゃあ自分だってできるんじゃないか」とチャレンジしてくれるだろうと思って、あの授業を始めたんです。それを受け止めて、リアクションしてくれた学生達が私が知るだけでも既に何人もいることがとても嬉しいです。
【自分はこれからどう生きるか。大学で確立すべきは「生きる核」】
――地球は今年で10周年です。今後どうなってほしいですか?
リベラルアーツをもっと深めて勉強してほしいなと思います。近年は大原専門学校が大学を作ったり、サラリーマンの再教育と言っても、テクニカルなことを学ぶのが大事みたいに思われているけど、理系であろうが文系であろうが、「生きる核」になるものをきちっと持って社会人にならないと、結局後で苦労するんですよ。
自分の経験からしても、頭脳がスポンジのように吸収できる大学生の時に、経済学でも社会学でも美術でも歴史でも好きな分野を見つけて深く学んだり、自分はこれからどう生きるかをきちっと学んでから社会に出てほしいです。地味だけどものすごく重要だから。パソコンを使うのももちろん重要だし、それはそれで当たり前に学ぶんだけど、それと同時にリベラルアーツをもっと深く学んで、自分が目指す夢や自分が生きてゆく信念を見つけてほしいと思います。
他の人から何を言われても、自分の目的意識や信念がはっきりしていれば、びくともしないし、怖くもなんともない。チャレンジして失敗したら、自分の行きたい方向に向かって、何度でもチャレンジすればいいわけだ。そういう意味で、強い人間になるためにも、大学時代に地球社会共生学部でリベラルアーツをきちんと学び、そして将来活躍するための道具として英語も学ぶことが大切です。
留学して、他の国の社会を見てみて。例えばマレーシアのUTARに行ったら、UTARっていう中華系の大学が存在している意味や、マレーシアにおける人種問題とか、色々分かったでしょ?イスラム教の国の中に中国人社会があるっていう。ああいうのって、やっぱり行ってみないと分からない。実際に行くことで、なぜあの地域に中国人が多いのか、直接、間接学べるものがあります。それもリベラルアーツです。ただ現地に行って異文化や日本と違う歴史を知るだけに終わらず、それを通じて自分自身の生き方を見つめ直し、多様な価値観や生き方を理解すれば、人生はより豊かになるのです。
※橘田先生スペシャルインタビュー第3回終了(全3回)
一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。
Colour1-1 地球社会共生学部・元教授
【#2「長野生まれ、西宮育ち、青学大出身。世界中を飛び回った国際開発金融マンが新学部の初代教授になるまで」】
【#3「学部名の由来は?地球の長所・短所も熱く厚く掘り下げる!必読エピソード大連発!」】
あの時、あの前、あの後――未知のウイルスとの遭遇から5年、船中の当事者に訊く
2020年初頭。突如として、新型コロナウイルスが世界中をパニックに陥れました。日本でその存在が広く知られるようになったのは、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」での集団感染です。最終的に乗客乗員3711人のうち、712人が感染した船の中で、一体何が起こっていたのか。
世界が一変した未曽有の出来事から5年。偶然、船に乗り合わせた青山学院大学・地球社会共生学部の元教授、橘田正造先生に話を訊きました。
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【ある日、世界が一変!それまでは「コロナのコの字もなかった」】
〈船に乗った1月20日に客室内で撮った写真。その16日後にまさか、あんなことになるなんて全く知らず…。私は意気揚々と「本日横浜を出港し英国船籍の大型客船にて16日間の船旅に出掛けて来ます」とFacebookに綴っていました〉
――まずは、ダイヤモンド・プリンセス号に乗船したきっかけを教えてください。
最大の理由は、2020年は結婚40周年だったからです。伏線は前年に別のクルーズ船で日本1周をしていたので、その良さを知った家内が「もう1回乗りたい。今度は海外版で」と言うので、ダイヤモンド・プリンセスの東南アジア周遊の旅に出ました。
船に乗ったのは、私の誕生日直前の1月20日です。横浜で乗って、横浜に帰ってきました。最初に止まったのが鹿児島。それ以降は香港→ベトナムのダナン→同国のハロン湾→台湾→沖縄→横浜の順番です。
〈横浜に帰ってくる遥か前の華やかな船内の雰囲気〉
――コロナの感染拡大が広がる以前、船内はどんな雰囲気でしたか?
最初の頃はもう和気あいあいです。1日中行動は自由なんですよ。部屋にいてもいいし、レストランに行ってもいいし。船が大きいから、あちこちにレストランやバーがあるんだね。だからどこで食べても飲んでもいい。夜は希望すれば、着席のディナーなんです。そのディナーのテーブルで、連日おしゃれなご家族と会話を楽しんでいました。
カジノ、映画上映、毎晩演目が変わる大劇場、プール、温泉もありました。それからDUTY FREE SHOPも。洋服や宝石など何から何までありました。
――乗船客の年齢層は?
リタイアした人達が多いですね。中高年のご夫婦。中には1人旅の人や、社会人のお孫さんがおじいちゃん・おばあちゃんと一緒にとかも。若者はほとんどいなかったです。
――外国人の割合は?
日本発で寄港先も東南アジアなので、日本人が7割くらいだったかと。あとは日本へ観光に来ていた香港の人や中国の人や台湾の人が、帰りに鹿児島に寄って、香港で降りていくとかね。欧米人もいたけど、そんなに数はいなかったです。
〈1月22日、高2の秋(1965年)に修学旅行で訪れて以来、何と55年ぶりに訪れた鹿児島で、71歳の誕生日を過ごしました。市内の西郷隆盛の生誕の地や、維新ふるさと館を訪れた後、JR九州の特急「たまて箱」で指宿の砂風呂を体験し、夕方に帰船しました〉
――楽しい船旅の最中、本当に突如として未知のウイルスが現れたわけですよね。
1月25日に香港で降りた人が、数日後にコロナに感染したと分かったらしいです。我々はベトナムに行っていて、知らないうちに、東京で大変な騒動になっていました。情報の拡散が遅れたのは、中国の河北省の省政府が黙っていたし、北京政府も隠蔽していたから。誰もそんな事実を知らなかったわけです。
河北省の病院のある先生はSNSで情報を出したんですが、その先生は逮捕された後、死んでしまったんです。「海外発信を禁じていた情報を勝手に出した」という理由で逮捕されて、もうその時彼は病院でコロナの患者を扱い、感染していたんですよね。結局、監獄の中で亡くなりました。でもそんな事実は当時、外部の我々は誰も知らなかったからね。コロナのコの字もなかったです。
〈横浜に帰港後の2月9日の朝に初めて新聞が配られました。自分が乗っている船の記事が1面に出ていて、変な気分でした〉
【外国人も日本人もみんな戦々恐々。薬が切れる心配も】
――コロナの情報を知ったのは、具体的にどのタイミングですか?
最後の行程で、沖縄で下りて観光して、船に戻ってきたら、船長からのアナウンスで知りました。2月5日です。僕ら夫婦はそれまで全く知りませんでした。
船長からのアナウンスで、「日本の厚生省からの指示により、これから横浜へ最速で戻ります。乗客はこれから14日間は各船室に留まって頂き、食事は部屋でとってもらいます」と。それまでは美味しいものを好きなだけ食べられたけど、突然、横浜へ帰港後はお菓子ケーキみたいなものになりました。それが毎食です。1日3回。要するに、横浜に戻ったタイミングから、もう外部から新たな供給を受けないので、船内の食料庫にストックがあるものを配給するしかないわけです。
〈隔離後に各船室に配膳された食事。毎回ほとんど同じです〉
〈船内隔離が始まって数日後から、3日に1度、1時間、各フロア順に乗客が上層階の広いデッキに出て、外気を吸ったり、ウォーキング等をすることが許されました〉
――乗船者の3割は外国人だったわけですが、受け止め方に日本人との違いはありました?
全然分からないです。横浜に帰港後は部屋から出られなくなっちゃったので。2月8日になって「次は何階の乗客」って、順番に1回1時間ずつ、週2回ぐらいデッキに出られるようになりました。デッキに出ると他の乗客と顔を合わせるんだけど、もう相手が感染しているかもしれないので、喋れることはできないわけです。
でも顔を見れば様子が分かるから、外へ出て初めて、みんな不安がっているのが分かりました。外国人も日本人もみんな戦々恐々としていました。互いに喋れないし、船の下を見れば、たくさんの数の救急車がずっと待っているし。
デッキに出る時には、全員にビニールの手袋とマスク着用が義務付けられて、用意されたものを自分で取っていました。人と触れることは完全に禁じられていました。
――着用の習慣がない国の人もいたと思います。全員がルールを守っていましたか?
それはだって、感染したくないから守っていましたよ。乗船者の中に既に感染している人がいるわけだから。誰が感染しているか分からないし。
〈支給されたマスクとビニールの手袋を着けて、デッキで体を動かしていたら、あっという間に制限時間の1時間が経ってしまいました〉
――部屋のシーツ交換などはどうしていたんですか?
シーツの交換の間隔は長くなり、自分でやるしかない状況です。シーツの場合、部屋の外に置いてもらったものを取って、古いシーツを外へ出しました。それまではスタッフがやってくれていたけど、ゴミなども自分で廊下に出しました。
――ご年配の方が多いなかで、薬が切れてしまう方もいたはずです。その対応は?
薬は、途中でアンケートが来て、何を飲んでいるかを書き込みました。それを国や県から乗り込んできた厚生省や自衛隊、薬剤師など様々な人が各船室に持って来てくれました。それから何日か後、ほとんど処方箋薬が切れかけていた時に、またドカッと持って来てくれました。
――間に合わなかった人もいるかもしれませんよね?
そうかもしれないね。特殊な薬だと。
――薬の提供は無償ですか?
無償です。処方箋薬が切れちゃうのは乗客のせいじゃないから(笑)。
〈感染ウイルスが何かが正確に判明せず、船内はカミュの名著「ペスト」を彷彿とさせる空気感が漂っていました。私は部屋のテレビでアメリカ大統領の一般教書の演説を見たり、元々持ち込んでいた何冊かの本を読んで過ごしていました〉
【ツラい軟禁生活に追い打ちをかけた崎陽軒弁当の廃棄】
――船内に留まっている間は、どのように過ごしていたのでしょうか?
読書をしていました。僕は旅行にはいつも何冊か本を持っていくので、暇な時は読んでいました。それが1番良いですよ。違う世界のことを考えられるでしょ。その他には、テレビを見るとか。各船室内のテレビはチャンネルと繋がっているわけじゃなくて、船内のテレビだから、NHKと、外国人のためのBBCやCNNのニュースが流れるだけです。
〈NHKのニュースで、元職場の後輩でNHKに転職したM氏が私達のクルーズ船について解説していました。なんと奇遇!〉
――そのニュースを見て、知る情報は多いですよね。「外はこんな風になっているんだ」と。
そうそうそう。「東京中、大変なことになってるな」「神奈川県ではもう受け入れ病院が限られている」とかね。実際にこの船から、次々と救急車で運ばれていくわけだ。隣の部屋の人が運ばれていったからね。2人のうち1人がまず搬送されたんですよ。なにか廊下で「わーっ」て言っているんだけど、もう会話にならないというか。
それで残された1人が、「自分の部屋のテレビがつかない」とか言って、僕の船室に来て「手伝ってくれ」って。情報源がないのは大変だから手伝いました。「こことここを押せばばいいんですよ」って。うちの奥さんは「うつるから行っちゃ駄目だよ!」って言ったんだけど。その部屋の1人が運ばれたわけだからね。
――外国の方ですか?日本人ですか?
日本語が通じたから、日本人じゃないかと思うんだけど、分からない(笑)。
〈2月11日、奥さんと2人で協力して、今月4日の軟禁開始から初めて各船室に配給されたシーツや枕カバーを古いものと交換。結構な運動量で汗をかきました。次いで日本人の船室に日の丸の旗が配られたので、船室ドアのレター受けに飾って建国記念日を祝いました。
その直後のランチでは、乗船以来初めてカップラーメンが配られました。同時に配られたメインのランチには目もくれず、ミネラルウォーターを沸かして、味わって食べました。やはり日本人は、たまにはこれを食べないとツラいです(笑)〉
――ニュースになった崎陽軒弁当の廃棄の件もお聞きしたいです。どういった経緯だったのでしょうか?
とにかくずっと、朝から晩まで毎日お菓子ケーキみたいな軽食だから、うちの奥さんも「コンビニのおにぎりやカップヌードルでいいから食べたい」って言ってたんです。その時に、おそらく横浜の人だと思うんだけど「崎陽軒のシュウマイ弁当。あれを食べたい」とSNSで発信した人がきっと何人かいたんだよね。それで崎陽軒が無料で4000食を届けてくれると。それをテレビニュースでやってたんですよ。「うわぁ!」だよ。うちの奥さんが大好きだから喜んでたんですよ。
「いつ来るかな?」「まだ来ない、まだ来ない」って言ってたら、テレビのニュースで「食品チェックをしていないので、クルーズ船の規定で受け入れられない」と。かつ、「もう何時間も経っているので廃棄します」と。「ちょっと待ってよ…賞味期限が過ぎててもいいからさ」って感じです。結局、船を下りるまで軽食が続きました。まあ、食べられるだけ、ありがたいんですけどね。いまだに崎陽軒のシューマイ弁当を見ると、あの時の悔しい思い出が蘇ります(笑)。
――奥様は橘田先生の横で何をなさっていたのですか?
結局、寝るのが好きな人だから、寝るとか。あとね、良かったのが、テレビでラジオ体操をやるんです。朝8時辺り、お昼や夕方にも。それで体を動かしていました。
――部屋はいくつかランクがありますよね。値段はどれくらい違うのでしょうか?
基本的にランクは3つ。1番良いのはテラス付き。2番目は窓付き。でも窓が開かないんです。これが僕らの部屋です。3つ目は窓のない部屋。自分たちの部屋は、飲み代から何まで全部込みで当時1人29万円ぐらい。テラス付きがプラス10万円だから、39万円ぐらいかな。窓がないのが19万円ぐらい。
その3つしかないんだろうと思っていたんだけど、乗ってみたら、トップクラスがあったんです。もうミリオネア。「スイート」って名前を使わずに、何か違う呼び名をしていましたね。「なんじゃこりゃ!」と思いました。最上階に彼ら専用のプールがあって、彼ら専用のダイニングがありました。
――それは一般販売もしていない特別な部屋なんでしょうか?
そうなんですよね。特別に会社の者とコンタクトを取るんじゃないですか?桁が違うから。
――ミリオネアの部屋はともかく…テラス付きの部屋は隔離中も自由にテラスに出られるので、かなり大きなメリットがありましたよね。
大きいね。いくらテラスが狭くても大きいね。僕らはまだ窓があったんでね。開かないけど。外が見られただけでも良かったです。
【船上のメリーバレンタイン。船員への感謝】
〈2月14日、朝の船長による船内放送でバレンタインデーだと気が付きました。同日は終日外出する順番が巡って来ませんでしたが、夫婦揃って熱も咳もなく今日を過ごせていることに感謝していると、夕方に写真の様なプレゼントが各船室に届きました。そしてそして遂に、突然船室のドアがノックされ自衛隊の医務官が目の前に現れました。5日の横浜帰港以来、漸く私達の問診と検体採取の順番が巡って来たのです。無事に終了後、その医務官に心から「ご苦労様です。ありがとうございました」と労いました〉
――船員の方の対応はどうでしたか?
全然不満はないです。全くない。船のスタッフ達も被害者だからね。よくやってくれたと思うよ。
――政府に対しては、どうですか?
政府に対しても同じです。だってあの当時は、何の病気かも分からないしね。原因が何なのかも分からず、「どうも中国から来たらしい」ぐらいしか分からなかったから。
――下船後にはテレビのインタビューを受けていましたね。その際の「皆さんの協力のおかげです」という発言からも感謝の想いが伺えます。改めて、下りた瞬間はどんな気持ちでしたか?
「生きて下りられたな。でも本当に私達、感染してないのかな?」って。分からないからね。検査を受けて「陰性です」って言われて、証明書を貰って、家内も「OK」って言われて、「ああ下りられる」と思ってんだけど、実際は精密検査したわけじゃないから。あれでいいのかどうか分からないから。
――下りてから家に帰るまでは、どういった流れだったんですか?
「第何号室から第何号室までの乗客で、陰性の証明書を貰った人は、何時何分に何階のデッキに来てください」と。そこが出口なの。みんなパスポートを持って船に乗っていますからね、パスポートを見せて本人確認をして、陰性証明書を見せて、下船していくわけです。
それでタラップを下りていくと、外に救急車がダーッと並んでいました。その横を歩いて、いわゆる税関に向かいました。その税関に行く時に、下船できない乗客が船から「さよならー元気でねー」って。こっちは「お先に失礼します」って。それでパスポートチェックやら、荷物チェックをして出ると、市営のバスがもう何10台と待っていました。乗り込むと、運転手さんとスタッフは防護服。我々が乗るところと彼らとの間には、ビニールでバーッてカバーされていました。
そのバスで横浜駅に着いたら、ものすごい数のマスコミのクルーがいました。そこで他の人達からは逃げられたのですが、最後に追いかけて来たNHKからインタビューを受けたんです。
【横浜で下船後も藤沢で続く軟禁生活「刑務所から出てきた犯人みたいな感覚」】
――横浜駅で解散になって、そこで初めて自由の身になったんですね。
だけど、こっちは荷物を持って、いかにも…みんなそう思っているわけじゃないんだけど、乗っていた人間からすれば、「あっこれ、ダイヤモンド・プリンセスに乗ってた人?」と思われるって(笑)。
家に着いてすぐに、藤沢の保健所から電話がかかってきました。「これから毎日1回確認をする必要があるので、何時頃だったらお家に電話していいか教えてください」と言われて、「午前11時ぐらいであれば大丈夫です」と伝えました。「できるだけ外出はしないでください」「とにかく2週間は家を離れないでください」とも言われました。とはいえ、1か月間も留守だったので食べ物がないから。なので、近くのスーパーに3日に1回ぐらいそっと買い物に行きました。
――船を下りても、また隔離ですね。
そうです。かつ、私の中高大、元勤務先の人達が電話してきて「お前乗ってたのか!」って。「何で知ってるの?」って聞いたら、「お前テレビ出てたよ!」って。マンションの人達も当然何人かは知っているだろうと。そうすると、やっぱり出られないわけです。もちろん、「極力出ないで」と言われていますし。要するに、刑務所から出てきた犯人みたいな感覚です。「あいつが道路歩いてる」って。船の中で2週間監禁、デッキしか出られない生活で、帰ってきてから2週間も基本的に身を隠すっていうかね。家内と私で、交代で近くのスーパーに買い物に行くぐらいですね。
〈2月19日11時30分頃に横浜港にて下船して、30日ぶりに同港に上陸。第1陣でバスにてJR横浜駅へ行き、13時頃に藤沢駅の南口の我が家に戻って来ました。少し遅めのランチは、船内で食べ損ねたあの崎陽軒のシュウマイ弁当を駅の売店で買って美味しくいただきました(笑)〉
【隔離の真ん中をちょっと過ぎたぐらいに「嘘のような船内アナウンス」】
――ダイヤモンド・プリンセス号乗船に関わるお金は、全額返金されたとか。
下船前に割と早めに…船内隔離の真ん中をちょっと過ぎたぐらいに、船長アナウンスで嘘のような船会社からの連絡を受けました。「今回のクルーズ船でお支払い頂いた料金と、船内でお買い求めになられた際の料金全てをご返却いたします」と。全額です。
〈埠頭に待機する救急車。「あぁ感染したらこれで運ばれるんだ」と思っていました〉
――船内で結構買っていましたか?
それなりに買っていました。記念写真があるんですよ。船内のスタジオで自分の葬儀用に使えるような写真も撮ってもらったしね(笑)。写真代いくらだったと思う?
――1万円ぐらいでしょうか?
そんなもんじゃないよ。船の中のあちこちでプロのカメラマンが乗客を撮ったスナップ写真やスタジオでの写真もありで、全部で20何万払いました。
――それも返ってきたわけですよね?
もちろん、もちろん。全部ただ。パーティーの時の写真とか、ダイニングで食べている時の写真とか。
――相当な額のお金が返ってきましたね。
だから、2人で船賃だけで約60万円返ってきたでしょ。買い物、写真代も含めれば100万円近く返ってきました。
――そういったお金は、保険会社が支払ったようですね。
あの船会社はこの東南アジアクルーズだけじゃなくて、世界中で運航しているわけですよね。それに、あの会社だけじゃなくて、いっぱいクルーズ船がありますから。地中海クルーズ、エーゲ海クルーズ、アドリア海クルーズ、北極圏クルーズ。どこで何が起きるか分かりません。ただ、何もない方が圧倒的に多いから、保険会社も引き受けるわけですよね。
【何に最も腹が立った?伝えたいのは「後悔のないように生きろ」】
――この一連の騒動を振り返った時に、何に1番腹が立ちましたか?
だってもう、本当は船に乗る1か月以上前に中国でコロナが発生していたわけでしょ。だから隠蔽ですよ。11月中旬か下旬。ひょっとしたら10月ぐらいに中国国内で発生していたわけですよね。それをずっと隠していたが故に、外に漏れなかった。一部漏らした人は即捕まって、牢屋に入れられた。それが先に分かっていれば、キャンセルして乗らなかったかもしれないし。
感染しちゃった人には申し訳ないけど、幸運だったのは、その時は既に寄港予定先を全て回って、堪能して、全部終わって、横浜に戻ってから監禁だったでしょ。途中で監禁されたら大変でした。鹿児島だったらまだ日本だし、香港やベトナムでもダナンだったら、都会だから病院があるかもしれないけど。
――最後にお聞きします。この騒動を経て、教訓にすべき点は何でしょうか?
防ぎようがないからね…。中国に「隠蔽体質をやめろ」って言っても、中国の隠蔽そのものが直らないから。まあせいぜい「その日その日、納得のいく生き方をしろ」と。「後悔のないように生きろ」ってことです。
※橘田先生スペシャルインタビュー第1回終了(全3回)