地球社会共生学部同窓会

GSC ALUMNI EVERYTHING SPECIAL

「地球の過ごし方」を教えてください!

ガイドブックには載っていない“すっぴん”情報を大募集中!現地在住だからこそ知る、ディープな側面を教えてください。文体は夏休みの宿題として書いた日記のようなラフな感じで大丈夫!レポートをお待ちしています!

回答はこちらから!

colour1-3 橘田正造

2025年04月24日

一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。

colour1-3 地球社会共生学部・元教授

【#1「あの時、あの前、あの後――未知のウイルスとの遭遇から5年、船中の当事者に訊く」はこちらから】

【#2「長野生まれ、西宮育ち、青学大出身。世界中を飛び回った国際開発金融マンが新学部の初代教授になるまで」はこちらから】

学部名の由来は?地球の長所・短所も熱く厚く掘り下げる!必読エピソード大連発!

2015年に産声を上げた青山学院大学・地球社会共生学部は、2025年に10周年を迎えます。それを記念した特別プログラムの一環として、2015年から1期生が卒業する2019年まで教授を務めた橘田正造先生に、住居を構える藤沢でインタビューを実施しました。

横浜国大や筑波大での教授経験を持つ、橘田先生が思う地球ならではの魅力、ここからさらに伸ばしていくべき部分は?貴重な情報が満載!地球生なら必読のエピソード大連発です。

――◆――◆――

【新設学部のネーミング秘話】

――そもそも「地球社会共生学部」って、中々珍しい学部名ですよね。

英語の「SCHOOL OF GLOBAL STUDIES AND COLLABORATION」はすぐに決まったんです。開設準備委員会の第1回目ではないですが、早々に「これで行きましょう」って。問題は日本語です。もう既に青学には国際政経はあるし、早稲田にも国際教養がある。基本的にリベラルアーツだから、国際教養でもいいんだけど、既にあるわけです。それから総合政策は、慶應にも関西学院にもあって、あちこちにある。

そんな時に桑島先生が「『地球』はどうですか。まさにグローバルです」って。それで他の先生方も「あっ良いですね」と。それで誰かが「『共生』ってどうですか。この学部は、どうしたら共生できるかを学ぶところだから」と。「地球」「共生」「社会」が来て、あとは順番ですよ。地球社会共生か、地球共生社会か。最終的に地球共生社会は落ちて、さらに日本国内の大学に似た名称の学部はないか詳細に確認したりして、学部の日本語の方の名前はだいぶ遅れて決まりました。

――2015年4月に開校したわけですが、学部名は具体的にいつ決まったんのしょうか?

パンフレットを作らないといけないし、ホームページにも書かないといけないから…自己推薦や学校推薦も始まっちゃうし。だから2014年の夏休み前じゃない?

覚えているのが、「夏のオープンキャンパスで模擬授業をしてください」と言われて、青山キャンパスの新しい建物の大講堂で話をしたんです。その時にはもう日本語の名前も決まっていたから…6月くらいには決まっていたんじゃないかな。英語の学部名称は本当にすぐ決まったんですよ。

幸先が良かったのは、2015年1月、箱根駅伝の優勝です。あの時点で、青学が箱根で優勝するなんて誰も考えてないから。気配もない。みんなびっくりしたんだよ。しかも皆さん気が付いているか分からないけど、連覇したのは2019年の正月までなんです。1期生が入学して卒業するまで優勝し続けたのです。2020年は優勝していないんですよ。

【筑波大学にあって、地球にないもの「そういうところに差が出てくるのかな」】

――地球のどんなところが好きですか?

正直言うと…青キャンって色んな学部があって、以前は短大もあって、歩いている学生が男性も女性もやはり派手なんですよ。できる子ももちろんいますが、チャラく見えるわけです。でも淵野辺のキャンパスには、そういう学生はいない。本当はいたのかもしれないけど(笑)。理工学部、社会情報、それとうちでしょ(※2019年にコミュニティ人間科学部が新たに誕生)。1番勉強しないのは、地球かなと思っていたんだけど、そうでもないでしょ。だから本当に、見た目的にもチャラくなくて、非常に真面目に授業に取り組んでいる学生が多くて、それに驚きました。良い意味で予想外でした。

――逆に足りない部分は?

私は筑波大学の学部でも教えていたんですよ。同じようなテーマのレポートを課すと、筑波大学の学生達の方が本当に食らいついてくる感じがしました。「難しいだろうな。半分ぐらいしか、良い点を取れないんだろうな」と思う課題を出しても、まだインターネットのない時代だったなかで「どこで調べてきたんだろう」って感じで、ほぼクラス全員がちゃんと食らいついてきました。いっぱい考えてきたのは読めば分かるからね。

もちろん地球にも、ガッツがあって、食らいつく学生はいるんだけど、最後の方で諦めてしまう感じは結構ある。そういうところに差が出てくるのかな。

でも自分も、エラそうなことは言えない経験があるんですよ。青学を卒業する4年生の時に、自分は経済学部だったから法律関係の単位をいくつか取らないといけなかったんですよ。で、何単位か取ったんだけど…名前を書いたら「可」を貰えると噂の法律の授業があったんです。それじゃまずいだろうと思って勉強して、ペーパーテストを受けたんだけど、2問あって、1問はまあまあ書けたけど、もう1問は全然書けませんでした。それで怖くなっちゃって。

当時、大学院は大学を卒業してから3月の受験で一発勝負なんです。卒業していないと大学院に入れないから、「ひょっとしたら駄目かもしれない」ってドキドキで。先生の研究室に行って、「大学院を受験するのでなんとか卒業したいです」と懇願しました。

本人の経験もあるので、エラそうなことは言えないけど(笑)。まあ、それ以外は…ゼミでもみんな良くやってくれたしね。

〈1期生の卒業式後、青山キャンパスの近くで卒業記念パーティーが開かれました〉

【定年を2年オーバーして、1期生と一緒に卒業したワケ】

――地球を去ったタイミングは1期生の卒業と同じ2019年3月でしたね。

青学って68歳で定年なんですよ。だから本来は2017年3月で定年だったんです。なので、2016年の夏に平澤先生の部屋に行って「来年、定年の68歳になります。(自分が定年して枠が空く分)公募になるので、私と同じ専門分野で優秀な先生を何人か知っているので声を掛けていいですか?」って聞いたら、平澤先生が「何を言ってるんですか!」って。

実は文科省の規則で、新しい学部を作ったら、その学部の1期生が卒業するまでカリキュラムを変えちゃいけないので、先生を変えられないんです。だから「橘田先生には1期生が卒業する時に一緒に辞めていただきます」と。それで仙波先生も平澤先生も岡部先生も、みんな同じタイミングで辞めました。なので僕は定年を2年オーバーして、GSCで4年間勤めました。

〈2018年夏に行ったゼミ生達とのインド研修ツアー。古都ジャイプール近郊では現地インド企業、JICA事業、現地NGO等への訪問のほか、観光地巡りやラジャスタン料理を楽しみました〉

【東大や京大ではなく、青学の卒業生でなくてはならない】

――地球で最も印象に残っている思い出やエピソードは?

どの授業も愛着を持っているんですけど、その中でも私が平澤学部長の了承を得て企画した科目「世界の青学」が印象に残っています。最大の特徴は、毎週講師が変わるオムニバス形式の授業で、講師は全員青学大の卒業生なんです。グローバルに活躍している私の教え子や知り合いに声を掛けて喋ってもらいました。外務省の大使を務めた人だったり、世界中を飛び回って活躍している人を呼んで話をしてもらいました。

なぜあんなことやったかというと、「国際的、グローバルに活躍する人材に」と言われても、地球に入って間もない学生は、世の中にどんなグルーバルに活躍する仕事があるかも知らないし、4年間これからどういう勉強したらいいか分からないからです。「グローバルに活躍する」と言っても、何を勉強したらいいかも分からない――そういう学生に、「グローバルに仕事をする時の選択肢として、こういう仕事があるよ」と伝えたかったんです。

自分が高校を卒業して大学に入った頃は、「国際的な仕事したい」と思っても外交官か商社しか頭に浮かびませんでした。だから、「『グローバルな仕事』と言ったら、実はこんなに選択肢がありますよ」と伝えたかったんです。東大や京大を卒業していなくても、「青学卒でそんなに活躍できるのか」と思う子もいるんじゃないかと思って、「あなた達の先輩でこんなに世界で活躍している人がいるんだよ」と知ってもらいたくて、青学卒の人達に声を掛けました。

地球社会共生学部はできたばかりだから、学部の卒業生じゃないんだけど、「青学の後輩にそういう話ができるのであれば、喜んでやります」と言ってくれた教え子や知り合いの人達がたくさんいて、講師を喜んで引き受けてくれました。

初年度は、受講生は30人ぐらいでした。だけど2年目に70人になり、翌年に170人になりました。毎年のように受講生が増えて、今現在この授業で触発された人達がグローバルな仕事に就いています。

東大や京大を卒業してグローバルに活躍している人達が講師で話をしても「それはそうだろう」と思うけど、青学の先輩達が気軽に後輩に話す語り口であれば、「あんなお兄さんやお姉さんでもできるのか」「あんなおじさんでもできるのか」「じゃあ自分だってできるんじゃないか」とチャレンジしてくれるだろうと思って、あの授業を始めたんです。それを受け止めて、リアクションしてくれた学生達が私が知るだけでも既に何人もいることがとても嬉しいです。

【自分はこれからどう生きるか。大学で確立すべきは「生きる核」】

――地球は今年で10周年です。今後どうなってほしいですか?

リベラルアーツをもっと深めて勉強してほしいなと思います。近年は大原専門学校が大学を作ったり、サラリーマンの再教育と言っても、テクニカルなことを学ぶのが大事みたいに思われているけど、理系であろうが文系であろうが、「生きる核」になるものをきちっと持って社会人にならないと、結局後で苦労するんですよ。

自分の経験からしても、頭脳がスポンジのように吸収できる大学生の時に、経済学でも社会学でも美術でも歴史でも好きな分野を見つけて深く学んだり、自分はこれからどう生きるかをきちっと学んでから社会に出てほしいです。地味だけどものすごく重要だから。パソコンを使うのももちろん重要だし、それはそれで当たり前に学ぶんだけど、それと同時にリベラルアーツをもっと深く学んで、自分が目指す夢や自分が生きてゆく信念を見つけてほしいと思います。

他の人から何を言われても、自分の目的意識や信念がはっきりしていれば、びくともしないし、怖くもなんともない。チャレンジして失敗したら、自分の行きたい方向に向かって、何度でもチャレンジすればいいわけだ。そういう意味で、強い人間になるためにも、大学時代に地球社会共生学部でリベラルアーツをきちんと学び、そして将来活躍するための道具として英語も学ぶことが大切です。

留学して、他の国の社会を見てみて。例えばマレーシアのUTARに行ったら、UTARっていう中華系の大学が存在している意味や、マレーシアにおける人種問題とか、色々分かったでしょ?イスラム教の国の中に中国人社会があるっていう。ああいうのって、やっぱり行ってみないと分からない。実際に行くことで、なぜあの地域に中国人が多いのか、直接、間接学べるものがあります。それもリベラルアーツです。ただ現地に行って異文化や日本と違う歴史を知るだけに終わらず、それを通じて自分自身の生き方を見つめ直し、多様な価値観や生き方を理解すれば、人生はより豊かになるのです。

※橘田先生スペシャルインタビュー第3回終了(全3回)

colour1-2 橘田正造

2025年04月17日

一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。

colour1-2 地球社会共生学部・元教授

【#1「あの時、あの前、あの後――未知のウイルスとの遭遇から5年、船中の当事者に訊く」はこちらから】

長野生まれ、西宮育ち、青学大出身。世界中を飛び回った国際開発金融マンが新学部の初代教授になるまで

2015年に産声を上げた青山学院大学・地球社会共生学部は、2025年に10周年を迎えます。それを記念した特別プログラムの一環として、2015年から1期生が卒業する2019年まで教授を務めた橘田正造先生に、住居を構える藤沢でインタビューを実施しました。

20代後半でのバンコク(1977~79)を皮切りに、マニラ(1984~87)、デリー(1992~94)、パリ(2002~03)と各地で駐在員を務め、仕事で世界53か国を訪れた後、どのようにして母校の青山学院大学に戻り、地球の初代教授になったのか。生い立ちから語っていただきました。

――◆――◆――

【「世の中をちょっと甘く見ていた」高校時代】

1949年1月に、長野市の郊外で、川中島の合戦があった場所の近くで生まれました。皆さんの時代は病院で生まれるんだけど、僕らの時代はまだ母親の実家でお産婆さん、今でいう助産婦さんが取り上げていました。

父親は神戸で仕事をしていたので、生まれてすぐ、神戸に近い西宮に移りました。阪神甲子園球場のあるところです。そこで高校を卒業するまで育ちました。

高校の3年生の秋に突然、私の頭の中になかった父親の転勤がありました。既に勤務地は神戸から大阪に移ってはいたけど、大阪からどこかに行くとは思っていなかったなかでの東京転勤でした。私はたくさんの友達が進学する関西の大学に行くつもりでしたが、急に「お前東京の大学を受けろ」と言われ、それで先生に相談して、いくつか東京の大学を受けて、青山学院の経済学部に行きました。

それまでは世の中をちょっと甘く見ていて、「これぐらいやっていれば、慶應ぐらい受かるだろう」と思っていました。そんな感じで舐めてかかって受けたら駄目でしたね。当時の第1志望は国立で、第2志望が慶應、青山は第3志望でした。

周りも自分も阪神タイガースファンで、アンチ東京だから、東京の大学を受ける人はほとんどいなくて、成績上位者は京都大学など関西の国立大学に行っていました。自分はそれほど悪くない成績だったから「これくらいできれば、慶應ぐらいは受かるだろう」と思っていたけど駄目でした。それで浪人しようと思ったら、高3の時の担任が「いや、君は浪人して成功するタイプじゃない」と。自分自身がどういうタイプか僕は分からないんだけど。「受かったところに行きなさい」と言われたのをよく覚えています。

高校の時は、日本を豊かにするために商社に入って、日本の製品を売って外貨を稼ぐ仕事をしたいと考えていました。僕らの子どもの頃は、教科書に出てくる日本の統計数字はみんな先進国の中では低位で、日本が貧乏だったんです。例えば、人口1万人当たりの乗用車の台数は、アメリカやイギリス、フランス、ドイツと比べて、日本は極端に少ない。だから子供心にも「こりゃなんとかせにゃいかん」と思っていました。

〈青学大経済学部の原豊ゼミのOB会の時の写真です。当時私は早大大学院の修士課程1年目で満23才でした。真ん中の2人が原ゼミの1年上の先輩達で、左端が私と同期の男性で、オンワード樫山の社員でした。後に同社のブランド「23区」の商品化に成功して、若くして同社の副社長になったのですが、過労のためか40代前半で他界しました〉

【「これぐらいやっとけば大丈夫」からの脱却】

大学時代は2年生の夏、1968年の「プラハの春」事件がキッカケで、ソ連、東ヨーロッパ経済を勉強し始めました。社会主義の経済がなぜ停滞を始めたのか。やってみたら面白くて面白くて、「これは4年生で卒業したら中途半端だな」と。大学院に行きたくなって父親に相談したら、父親は「駄目だ。お前みたいな1人っ子の世間知らずは早く社会に出て鍛えられろ」と言うわけです。僕は諦められないから、父親と何度か話し合って、最後は母親が助太刀してくれました。

早稲田に堀江先生という、まさに僕がやりたいことを研究している先生がいて、それで早稲田の大学院を受けたんですよね。今でこそ文系で大学院に行くのは、そう珍しくないけど、僕らの時代は文系で大学院に行ったら、就職はほぼ不可でした。しかも、入試は大学卒業直前の年1回でした。受験に失敗したら就職浪人になります。「それでもお前行くのか?」と周囲に言われても、「とにかく研究したい」と。それで受けたら受かったんです。

それまでは中高大と受験して、みんな駄目でした。生まれて初めて自分でもっと勉強したくなって受験したら、早稲田の大学院に受かったんです。倍率は3倍でした。大学院に行ったらまたまた面白くなっちゃって。もうちょっと勉強して、博士課程に行こうかとも思ったんだけど、父親と「大学院は修士の2年だけ」と約束していたので、就職することにしました。国際貢献の仕事を探しました。

今でこそ、JICAとかがあるけど、当時はほとんどなくて、開発途上国に対する資金協力の政府機関がありました。低利で長期返済のローンを出して、インフラを整えたり、農村開発をしたりして、返してもらって、それをまた他の国に貸したりする。円で貸して、円で返してもらう。円借款をやっている組織があるのを知って、創立後まだ10年目ぐらいだったんだけど、駄目元で受けました。倍率は25倍。125人受験して、合格者は5人でした。受かると思っていなかったんだけど、受かっちゃいました。

だから自分で見つけた好きな分野の勉強を始めたら大学院に受かり、真剣に国際貢献の仕事をしたいと思って受けたらまた受かり。意識の差は本当に大きいと思います。高校生までは何となく「これぐらいやっとけば大丈夫だ」と甘く考えて受けて、みんな駄目でした。

【「逃げない勇気」で世界を股にかける】

職場で周りを見れば、東京大学、京都大学、一橋などの国立大出身者達がゴロゴロいるわけです。私学出身者は少なかったです。でも私は委縮しませんでした。なぜかというと、大学時代が学園紛争の時代で、そのおかげもあって西洋哲学、東洋哲学を人一倍学び、「何のために生きるか」「どうやって自分は生きたらいいか」の核みたいなものを持ち得ていたからです。

かつ、職場では、できる人ばっかりで、こっちは謙虚だから色んなものを学べるわけです。そうこうするうちに、20代後半でバンコクに駐在を命じられました。

バンコクから帰ってきて5年経ったら、人事課長から突然呼ばれて、「アジア開発銀行に1つポストがある。今度面接を受けろ」と言われました。でも前々から、世界銀行とアジア開発銀行で勤務して帰ってきた先輩達から「とにかく競争が激しくて、よっぽど心臓が強くないと務まらない」と聞いていたので、「希望も出してないし、心臓も強くないので、私は向いてないと思います」と言ったら、人事課長から「断ると思ってないので、よく考えろ」と。それで週末考えて、「やっぱりここは逃げちゃいけない」と。皆さんにも卒業の時に「辛いことから逃げない勇気」を喋ったじゃないですか。その逃げない勇気を発揮して週明けに「受けます」って受けたら、第1次面接(東京)と第2次面接(マニラ本店)に受かったんです。

僕は留学してないわけですね。アジア開発銀行にいた約4年近くの経験がその後の自分をめちゃくちゃ支えていたと分かるんですよ。アジア開発銀行はアジアの人も多いけど、専門スタッフには主要出資国のヨーロッパやアメリカの人が過半数いて、そういう人達と喧々諤々とやるわけです。しかも給与面でも駄目な奴はベースアップ0とか、辞めてゆくとか。そういう中で生き延びて、給与レベルを毎年上げているうちに、対外国人が怖くなくなって、英語ももちろんそうです。その経験は自分をものすごく強くしました。それがマニラでの話です。

帰ってきて、また5年経ったら、「今度はインドに行け」と。その時にインドの担当課長をしていたんですけど、ちょうどインドが1991年に経済改革を行って、それまでずっと社会主義で来ていたけど、1991年の湾岸戦争を契機に、独立以来最大の経済危機となり、市場経済化を始めたタイミングでした。担当課長としてインドに対する緊急支援の円借款をまとめたりして、それでインドに赴任して、本格的に数多くのインド官僚達と関わって、それでまたインド人を説き伏せる肝と能力が身に付きました。インド人には結構驚かれましたね。

〈90~92年は東京でインドを含む南西アジア担当課長、92~94年はインド事務所所長を務めました。当時の組織名は海外経済協力基金(OECF)。61年創設で円借款を専門に担当していた政府機関です。その後99年から国際協力銀行(JBIC)に、更に2008年から国際協力機構(JICA)に組織統合になりました。写真は2018年夏のゼミのインド研修で、元デリー事務所スタッフの2人と会った時です〉

そういう経験をして帰国して、南アジアや中東辺りの担当部長をやった後に突然、「本部で円借款業務全般を統括する部長をやれ」と言われ、国会やら色々あってヘトヘトでした。

そうしたなか2002年のある日、役員から役員室に呼ばれて行ったら、「君、2か月後からパリに行ってもらう」と言われたんです。それは2002年の初夏で、当時はミレニアムデベロップメントゴールズ、MDGsで世界中がアフリカをどうするかを考えていた時でした。

「君にはアフリカ全域を担当してもらう」と。フランスの元植民地がアフリカにいっぱいあり、フランス語圏の情報が集まるので、「世界銀行もOECD(経済協力開発機構)もアフリカにますます注力する。だからパリにいて、パリからアフリカ中を回ってほしい。日本として今後どうやったら円借款でアフリカの支援ができるか考えてほしい」と言われました。結局1年3か月しかいませんでしたが、その間に1番貧しいエリアのサブサハラアフリカ13か国を回りました。宿題の対アフリカ支援スキームは、帰国時に日本政府に私案が採用され、G7でも公表され、20年後の今も運用されています。

【「よくあるパターン」で念願の“本ちゃん”へ】

その後、2005年の9月に国際協力銀行(JBIC)を退職しました。最後は同銀行の開発金融研究所の所長でした。実はその退職1か月前に突然ある知人から電話がかかってきていたんです。相手はアジア開発銀行で時期がちょっと被っていた人で、横浜国大の大学院の研究科長になっていました。その人から「橘田さん、客員教授で科目担当をやってくれないか」と言われて、「いいですよ」と引き受けました。

なんですぐに客員教授ができたかというと、インドから帰ってきた翌年の1995年秋に、青学の経済学部でゼミの先生だった原教授から「橘田君、1度講義してくれないか」と言われて、9号館の大教室で、日本の開発援助について話をしたことがあったんです。

講義後に先生から「橘田君、お昼空いてますか?」って誘われて。青山キャンパス近くの高そうなレストランに案内されて、そこにいた経済学部のたくさんの教授達から色んなことを聞かれました。それからしばらく経ったら原教授から電話がかかってきて「君、面接に合格したから、来年1996年度から青学で非常勤をやってくれないか?」と言われ、各国経済論をやりました。ウィークデイでは忙しくてできなくて、土曜日に昼間部・夜間部合同の科目を担当しました。

原先生からは「君は大学を卒業する前から『第1の人生を退職したら大学の先生をやりたい』って言ってたじゃないか」と言われたのですが、大卒前から本当にそう思っていたんです。なぜ思っていたかというと、ここ大事なんだけど、自分が大学で勉強して人生で初めて学ぶことの面白さを知ったんです。それと同時に、色んな哲学や思想史などを勉強して精神力が強くなったんですよ。自分はどうしたら生きていけるか、「核」を持ったんです。大学の時に、強く生きる術を発見するキッカケを与えてもらうことが重要なんです。そのキッカケを与えられるような仕事ができたらいいなと思って、第2の人生で大学に行きたいと思ったんです。

それで1996年から青学大で非常勤講師をやっていて、10年目の2005年に「横浜国大の大学院で客員教授をやってくれないか」と言われたんです。既に私は1年間分の講義のネタがあるから、「いいですよ」と引き受けて、横浜国大の大学院で教え始めました。でも客員教授って非常勤と基本的に変わらないんですよ。フルタイムの“本ちゃん”じゃないんですよ。

「フルタイムでやりたいな」と思っていたなかで、私の専門分野で4つぐらい大学の公募があって、国立大や私大を受けたのですが、駄目でした。「なんで駄目なんですかね?」って知人のある先生に聞いたら、「だって橘田さん、もうすぐ60歳じゃないですか。しかも留学してないし、博士号を持ってないでしょ」って言われて、「そうか駄目か」と。

そうこうするうちに、筑波大学の募集の情報が来て、これが駄目だったらもう諦めようと思って受けたら、受かったんです。

それで筑波大学で、教授に加えて、筑波大学の国際化をさらに進める新設の国際部の部長も兼任する教授の仕事を始めました。でも筑波大学は、生徒は良いんだけど、私の住居がある藤沢からは遠い。大学の宿舎を与えられたんだけど、年長者にはやっぱりしんどいわけです。

そんななか、筑波大3年目のある日、同大学のある先生が「青学の大学院で、2011年春から社会人留学生を受け入れる英語だけの修士プログラムを始めるので、先生を募集している」と教えてくれました。自分は筑波大学で、社会人留学生の修士プログラムで教えていたし、学部でも英語で教える科目も担当していたので、募集の情報を教えてくれた先生が「推薦するので受けませんか」って。その時、ちょうど筑波大の国際部長の仕事のきりも良かったし、青学は母校なので、「はい」と言って青学に応募したのが2011年の3月です。

〈地球社会共生学部開設後も、毎週金曜に青山キャンパスで大学院の社会人留学生(全員が途上国の政府職員達)への授業を担当していた頃です〉

【当時学長の仙波先生から電話が!「クビかな?」ドキドキして会いに行ったら…】

それから2年後の2013年の春、大学院の特任教授3年目の時です。突然、当時学長を務めていた仙波先生の学長秘書から電話がかかってきて、「学長がお会いしたいと言っています。ご都合の良い時間に」って。こっちはぺいぺいの特任教授でしょ。会ったこともない学長の秘書から電話がかかってきて、いきなり「学長が会いたいと言っています」って言うから、クビかな?「もうそろそろ、やめていただきたい」って言われると思ったわけです(笑)。

歳も歳だし。2013年だから64歳。恐る恐る学長室へ行ったら、仙波先生と平澤先生がおられて、そこで仙波先生が「今度、相模原キャンパスに社会科学系の新しい学部を作ります。グローバルに活躍できる学生を育てたい。いずれは留学生も呼びたい。橘田先生は筑波大学で国際部長をされて、筑波大学の国際化推進の仕事をされたと聞いています。開設準備委員会を作るので、そのメンバーになってもらえませんか」と言われて。こっちはもうクビじゃなくてホッとしたこともあり(笑)、「そういうことでお役に立つのであれば、是非やらせてください」と言って、お引き受けしました。

それで1年半ほど経って、2014年のある日、平澤先生が「文科省から許可が降りました。これから2015年4月入学の学生を募集します。ついては、2015年の4月から開設準備委員会の先生は淵野辺に移っていただいて、そこで教員になっていただきます」と。それで2015年の4月に向けて、色んな準備でタイの大学に行ったり、マレーシアの大学に行きました。

〈地球社会共生学部に移る前(青学大の大学院経営学研究科の特任教授)の2014年頃です。この期では私のゼミで修論指導した3人のうち、ケニアからの院生が翌年の修了式で研究科でトップの総代に選ばれました。指導教員としても大変誇らしかったです〉

※橘田先生スペシャルインタビュー第2回終了(全3回)

colour1-1 橘田正造

2025年04月11日

一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。

colour1-1 地球社会共生学部・元教授

あの時、あの前、あの後――未知のウイルスとの遭遇から5年、船中の当事者に訊く

2020年初頭。突如として、新型コロナウイルスが世界中をパニックに陥れました。日本でその存在が広く知られるようになったのは、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」での集団感染です。最終的に乗客乗員3711人のうち、712人が感染した船の中で、一体何が起こっていたのか。

世界が一変した未曽有の出来事から5年。偶然、船に乗り合わせた青山学院大学・地球社会共生学部の元教授、橘田正造先生に話を訊きました。

――◆――◆――

【ある日、世界が一変!それまでは「コロナのコの字もなかった」】

〈船に乗った1月20日に客室内で撮った写真。その16日後にまさか、あんなことになるなんて全く知らず…。私は意気揚々と「本日横浜を出港し英国船籍の大型客船にて16日間の船旅に出掛けて来ます」とFacebookに綴っていました〉

――まずは、ダイヤモンド・プリンセス号に乗船したきっかけを教えてください。

最大の理由は、2020年は結婚40周年だったからです。伏線は前年に別のクルーズ船で日本1周をしていたので、その良さを知った家内が「もう1回乗りたい。今度は海外版で」と言うので、ダイヤモンド・プリンセスの東南アジア周遊の旅に出ました。

船に乗ったのは、私の誕生日直前の1月20日です。横浜で乗って、横浜に帰ってきました。最初に止まったのが鹿児島。それ以降は香港→ベトナムのダナン→同国のハロン湾→台湾→沖縄→横浜の順番です。

〈横浜に帰ってくる遥か前の華やかな船内の雰囲気〉

――コロナの感染拡大が広がる以前、船内はどんな雰囲気でしたか?

最初の頃はもう和気あいあいです。1日中行動は自由なんですよ。部屋にいてもいいし、レストランに行ってもいいし。船が大きいから、あちこちにレストランやバーがあるんだね。だからどこで食べても飲んでもいい。夜は希望すれば、着席のディナーなんです。そのディナーのテーブルで、連日おしゃれなご家族と会話を楽しんでいました。

カジノ、映画上映、毎晩演目が変わる大劇場、プール、温泉もありました。それからDUTY FREE SHOPも。洋服や宝石など何から何までありました。

――乗船客の年齢層は?

リタイアした人達が多いですね。中高年のご夫婦。中には1人旅の人や、社会人のお孫さんがおじいちゃん・おばあちゃんと一緒にとかも。若者はほとんどいなかったです。

――外国人の割合は?

日本発で寄港先も東南アジアなので、日本人が7割くらいだったかと。あとは日本へ観光に来ていた香港の人や中国の人や台湾の人が、帰りに鹿児島に寄って、香港で降りていくとかね。欧米人もいたけど、そんなに数はいなかったです。

〈1月22日、高2の秋(1965年)に修学旅行で訪れて以来、何と55年ぶりに訪れた鹿児島で、71歳の誕生日を過ごしました。市内の西郷隆盛の生誕の地や、維新ふるさと館を訪れた後、JR九州の特急「たまて箱」で指宿の砂風呂を体験し、夕方に帰船しました〉

――楽しい船旅の最中、本当に突如として未知のウイルスが現れたわけですよね。

1月25日に香港で降りた人が、数日後にコロナに感染したと分かったらしいです。我々はベトナムに行っていて、知らないうちに、東京で大変な騒動になっていました。情報の拡散が遅れたのは、中国の河北省の省政府が黙っていたし、北京政府も隠蔽していたから。誰もそんな事実を知らなかったわけです。

河北省の病院のある先生はSNSで情報を出したんですが、その先生は逮捕された後、死んでしまったんです。「海外発信を禁じていた情報を勝手に出した」という理由で逮捕されて、もうその時彼は病院でコロナの患者を扱い、感染していたんですよね。結局、監獄の中で亡くなりました。でもそんな事実は当時、外部の我々は誰も知らなかったからね。コロナのコの字もなかったです。

〈横浜に帰港後の2月9日の朝に初めて新聞が配られました。自分が乗っている船の記事が1面に出ていて、変な気分でした〉

【外国人も日本人もみんな戦々恐々。薬が切れる心配も】

――コロナの情報を知ったのは、具体的にどのタイミングですか?

最後の行程で、沖縄で下りて観光して、船に戻ってきたら、船長からのアナウンスで知りました。2月5日です。僕ら夫婦はそれまで全く知りませんでした。

船長からのアナウンスで、「日本の厚生省からの指示により、これから横浜へ最速で戻ります。乗客はこれから14日間は各船室に留まって頂き、食事は部屋でとってもらいます」と。それまでは美味しいものを好きなだけ食べられたけど、突然、横浜へ帰港後はお菓子ケーキみたいなものになりました。それが毎食です。1日3回。要するに、横浜に戻ったタイミングから、もう外部から新たな供給を受けないので、船内の食料庫にストックがあるものを配給するしかないわけです。

〈隔離後に各船室に配膳された食事。毎回ほとんど同じです〉

〈船内隔離が始まって数日後から、3日に1度、1時間、各フロア順に乗客が上層階の広いデッキに出て、外気を吸ったり、ウォーキング等をすることが許されました〉

――乗船者の3割は外国人だったわけですが、受け止め方に日本人との違いはありました?

全然分からないです。横浜に帰港後は部屋から出られなくなっちゃったので。2月8日になって「次は何階の乗客」って、順番に1回1時間ずつ、週2回ぐらいデッキに出られるようになりました。デッキに出ると他の乗客と顔を合わせるんだけど、もう相手が感染しているかもしれないので、喋れることはできないわけです。

でも顔を見れば様子が分かるから、外へ出て初めて、みんな不安がっているのが分かりました。外国人も日本人もみんな戦々恐々としていました。互いに喋れないし、船の下を見れば、たくさんの数の救急車がずっと待っているし。

デッキに出る時には、全員にビニールの手袋とマスク着用が義務付けられて、用意されたものを自分で取っていました。人と触れることは完全に禁じられていました。

――着用の習慣がない国の人もいたと思います。全員がルールを守っていましたか?

それはだって、感染したくないから守っていましたよ。乗船者の中に既に感染している人がいるわけだから。誰が感染しているか分からないし。

〈支給されたマスクとビニールの手袋を着けて、デッキで体を動かしていたら、あっという間に制限時間の1時間が経ってしまいました〉

――部屋のシーツ交換などはどうしていたんですか?

シーツの交換の間隔は長くなり、自分でやるしかない状況です。シーツの場合、部屋の外に置いてもらったものを取って、古いシーツを外へ出しました。それまではスタッフがやってくれていたけど、ゴミなども自分で廊下に出しました。

――ご年配の方が多いなかで、薬が切れてしまう方もいたはずです。その対応は?

薬は、途中でアンケートが来て、何を飲んでいるかを書き込みました。それを国や県から乗り込んできた厚生省や自衛隊、薬剤師など様々な人が各船室に持って来てくれました。それから何日か後、ほとんど処方箋薬が切れかけていた時に、またドカッと持って来てくれました。

――間に合わなかった人もいるかもしれませんよね?

そうかもしれないね。特殊な薬だと。

――薬の提供は無償ですか?

無償です。処方箋薬が切れちゃうのは乗客のせいじゃないから(笑)。

〈感染ウイルスが何かが正確に判明せず、船内はカミュの名著「ペスト」を彷彿とさせる空気感が漂っていました。私は部屋のテレビでアメリカ大統領の一般教書の演説を見たり、元々持ち込んでいた何冊かの本を読んで過ごしていました〉

【ツラい軟禁生活に追い打ちをかけた崎陽軒弁当の廃棄】

――船内に留まっている間は、どのように過ごしていたのでしょうか?

読書をしていました。僕は旅行にはいつも何冊か本を持っていくので、暇な時は読んでいました。それが1番良いですよ。違う世界のことを考えられるでしょ。その他には、テレビを見るとか。各船室内のテレビはチャンネルと繋がっているわけじゃなくて、船内のテレビだから、NHKと、外国人のためのBBCやCNNのニュースが流れるだけです。

〈NHKのニュースで、元職場の後輩でNHKに転職したM氏が私達のクルーズ船について解説していました。なんと奇遇!〉

――そのニュースを見て、知る情報は多いですよね。「外はこんな風になっているんだ」と。

そうそうそう。「東京中、大変なことになってるな」「神奈川県ではもう受け入れ病院が限られている」とかね。実際にこの船から、次々と救急車で運ばれていくわけだ。隣の部屋の人が運ばれていったからね。2人のうち1人がまず搬送されたんですよ。なにか廊下で「わーっ」て言っているんだけど、もう会話にならないというか。

それで残された1人が、「自分の部屋のテレビがつかない」とか言って、僕の船室に来て「手伝ってくれ」って。情報源がないのは大変だから手伝いました。「こことここを押せばばいいんですよ」って。うちの奥さんは「うつるから行っちゃ駄目だよ!」って言ったんだけど。その部屋の1人が運ばれたわけだからね。

――外国の方ですか?日本人ですか?

日本語が通じたから、日本人じゃないかと思うんだけど、分からない(笑)。

〈2月11日、奥さんと2人で協力して、今月4日の軟禁開始から初めて各船室に配給されたシーツや枕カバーを古いものと交換。結構な運動量で汗をかきました。次いで日本人の船室に日の丸の旗が配られたので、船室ドアのレター受けに飾って建国記念日を祝いました。

その直後のランチでは、乗船以来初めてカップラーメンが配られました。同時に配られたメインのランチには目もくれず、ミネラルウォーターを沸かして、味わって食べました。やはり日本人は、たまにはこれを食べないとツラいです(笑)〉

――ニュースになった崎陽軒弁当の廃棄の件もお聞きしたいです。どういった経緯だったのでしょうか?

とにかくずっと、朝から晩まで毎日お菓子ケーキみたいな軽食だから、うちの奥さんも「コンビニのおにぎりやカップヌードルでいいから食べたい」って言ってたんです。その時に、おそらく横浜の人だと思うんだけど「崎陽軒のシュウマイ弁当。あれを食べたい」とSNSで発信した人がきっと何人かいたんだよね。それで崎陽軒が無料で4000食を届けてくれると。それをテレビニュースでやってたんですよ。「うわぁ!」だよ。うちの奥さんが大好きだから喜んでたんですよ。

「いつ来るかな?」「まだ来ない、まだ来ない」って言ってたら、テレビのニュースで「食品チェックをしていないので、クルーズ船の規定で受け入れられない」と。かつ、「もう何時間も経っているので廃棄します」と。「ちょっと待ってよ…賞味期限が過ぎててもいいからさ」って感じです。結局、船を下りるまで軽食が続きました。まあ、食べられるだけ、ありがたいんですけどね。いまだに崎陽軒のシューマイ弁当を見ると、あの時の悔しい思い出が蘇ります(笑)。

――奥様は橘田先生の横で何をなさっていたのですか?

結局、寝るのが好きな人だから、寝るとか。あとね、良かったのが、テレビでラジオ体操をやるんです。朝8時辺り、お昼や夕方にも。それで体を動かしていました。

――部屋はいくつかランクがありますよね。値段はどれくらい違うのでしょうか?

基本的にランクは3つ。1番良いのはテラス付き。2番目は窓付き。でも窓が開かないんです。これが僕らの部屋です。3つ目は窓のない部屋。自分たちの部屋は、飲み代から何まで全部込みで当時1人29万円ぐらい。テラス付きがプラス10万円だから、39万円ぐらいかな。窓がないのが19万円ぐらい。

その3つしかないんだろうと思っていたんだけど、乗ってみたら、トップクラスがあったんです。もうミリオネア。「スイート」って名前を使わずに、何か違う呼び名をしていましたね。「なんじゃこりゃ!」と思いました。最上階に彼ら専用のプールがあって、彼ら専用のダイニングがありました。

――それは一般販売もしていない特別な部屋なんでしょうか?

そうなんですよね。特別に会社の者とコンタクトを取るんじゃないですか?桁が違うから。

――ミリオネアの部屋はともかく…テラス付きの部屋は隔離中も自由にテラスに出られるので、かなり大きなメリットがありましたよね。

大きいね。いくらテラスが狭くても大きいね。僕らはまだ窓があったんでね。開かないけど。外が見られただけでも良かったです。

【船上のメリーバレンタイン。船員への感謝】

〈2月14日、朝の船長による船内放送でバレンタインデーだと気が付きました。同日は終日外出する順番が巡って来ませんでしたが、夫婦揃って熱も咳もなく今日を過ごせていることに感謝していると、夕方に写真の様なプレゼントが各船室に届きました。そしてそして遂に、突然船室のドアがノックされ自衛隊の医務官が目の前に現れました。5日の横浜帰港以来、漸く私達の問診と検体採取の順番が巡って来たのです。無事に終了後、その医務官に心から「ご苦労様です。ありがとうございました」と労いました〉

――船員の方の対応はどうでしたか?

全然不満はないです。全くない。船のスタッフ達も被害者だからね。よくやってくれたと思うよ。

――政府に対しては、どうですか?

政府に対しても同じです。だってあの当時は、何の病気かも分からないしね。原因が何なのかも分からず、「どうも中国から来たらしい」ぐらいしか分からなかったから。

――下船後にはテレビのインタビューを受けていましたね。その際の「皆さんの協力のおかげです」という発言からも感謝の想いが伺えます。改めて、下りた瞬間はどんな気持ちでしたか?

「生きて下りられたな。でも本当に私達、感染してないのかな?」って。分からないからね。検査を受けて「陰性です」って言われて、証明書を貰って、家内も「OK」って言われて、「ああ下りられる」と思ってんだけど、実際は精密検査したわけじゃないから。あれでいいのかどうか分からないから。

――下りてから家に帰るまでは、どういった流れだったんですか?

「第何号室から第何号室までの乗客で、陰性の証明書を貰った人は、何時何分に何階のデッキに来てください」と。そこが出口なの。みんなパスポートを持って船に乗っていますからね、パスポートを見せて本人確認をして、陰性証明書を見せて、下船していくわけです。

それでタラップを下りていくと、外に救急車がダーッと並んでいました。その横を歩いて、いわゆる税関に向かいました。その税関に行く時に、下船できない乗客が船から「さよならー元気でねー」って。こっちは「お先に失礼します」って。それでパスポートチェックやら、荷物チェックをして出ると、市営のバスがもう何10台と待っていました。乗り込むと、運転手さんとスタッフは防護服。我々が乗るところと彼らとの間には、ビニールでバーッてカバーされていました。

そのバスで横浜駅に着いたら、ものすごい数のマスコミのクルーがいました。そこで他の人達からは逃げられたのですが、最後に追いかけて来たNHKからインタビューを受けたんです。

【横浜で下船後も藤沢で続く軟禁生活「刑務所から出てきた犯人みたいな感覚」】

――横浜駅で解散になって、そこで初めて自由の身になったんですね。

だけど、こっちは荷物を持って、いかにも…みんなそう思っているわけじゃないんだけど、乗っていた人間からすれば、「あっこれ、ダイヤモンド・プリンセスに乗ってた人?」と思われるって(笑)。

家に着いてすぐに、藤沢の保健所から電話がかかってきました。「これから毎日1回確認をする必要があるので、何時頃だったらお家に電話していいか教えてください」と言われて、「午前11時ぐらいであれば大丈夫です」と伝えました。「できるだけ外出はしないでください」「とにかく2週間は家を離れないでください」とも言われました。とはいえ、1か月間も留守だったので食べ物がないから。なので、近くのスーパーに3日に1回ぐらいそっと買い物に行きました。

――船を下りても、また隔離ですね。

そうです。かつ、私の中高大、元勤務先の人達が電話してきて「お前乗ってたのか!」って。「何で知ってるの?」って聞いたら、「お前テレビ出てたよ!」って。マンションの人達も当然何人かは知っているだろうと。そうすると、やっぱり出られないわけです。もちろん、「極力出ないで」と言われていますし。要するに、刑務所から出てきた犯人みたいな感覚です。「あいつが道路歩いてる」って。船の中で2週間監禁、デッキしか出られない生活で、帰ってきてから2週間も基本的に身を隠すっていうかね。家内と私で、交代で近くのスーパーに買い物に行くぐらいですね。

〈2月19日11時30分頃に横浜港にて下船して、30日ぶりに同港に上陸。第1陣でバスにてJR横浜駅へ行き、13時頃に藤沢駅の南口の我が家に戻って来ました。少し遅めのランチは、船内で食べ損ねたあの崎陽軒のシュウマイ弁当を駅の売店で買って美味しくいただきました(笑)〉

【隔離の真ん中をちょっと過ぎたぐらいに「嘘のような船内アナウンス」】

――ダイヤモンド・プリンセス号乗船に関わるお金は、全額返金されたとか。

下船前に割と早めに…船内隔離の真ん中をちょっと過ぎたぐらいに、船長アナウンスで嘘のような船会社からの連絡を受けました。「今回のクルーズ船でお支払い頂いた料金と、船内でお買い求めになられた際の料金全てをご返却いたします」と。全額です。

〈埠頭に待機する救急車。「あぁ感染したらこれで運ばれるんだ」と思っていました〉

――船内で結構買っていましたか?

それなりに買っていました。記念写真があるんですよ。船内のスタジオで自分の葬儀用に使えるような写真も撮ってもらったしね(笑)。写真代いくらだったと思う?

――1万円ぐらいでしょうか?

そんなもんじゃないよ。船の中のあちこちでプロのカメラマンが乗客を撮ったスナップ写真やスタジオでの写真もありで、全部で20何万払いました。

――それも返ってきたわけですよね?

もちろん、もちろん。全部ただ。パーティーの時の写真とか、ダイニングで食べている時の写真とか。

――相当な額のお金が返ってきましたね。

だから、2人で船賃だけで約60万円返ってきたでしょ。買い物、写真代も含めれば100万円近く返ってきました。

――そういったお金は、保険会社が支払ったようですね。

あの船会社はこの東南アジアクルーズだけじゃなくて、世界中で運航しているわけですよね。それに、あの会社だけじゃなくて、いっぱいクルーズ船がありますから。地中海クルーズ、エーゲ海クルーズ、アドリア海クルーズ、北極圏クルーズ。どこで何が起きるか分かりません。ただ、何もない方が圧倒的に多いから、保険会社も引き受けるわけですよね。

【何に最も腹が立った?伝えたいのは「後悔のないように生きろ」】

――この一連の騒動を振り返った時に、何に1番腹が立ちましたか?

だってもう、本当は船に乗る1か月以上前に中国でコロナが発生していたわけでしょ。だから隠蔽ですよ。11月中旬か下旬。ひょっとしたら10月ぐらいに中国国内で発生していたわけですよね。それをずっと隠していたが故に、外に漏れなかった。一部漏らした人は即捕まって、牢屋に入れられた。それが先に分かっていれば、キャンセルして乗らなかったかもしれないし。

感染しちゃった人には申し訳ないけど、幸運だったのは、その時は既に寄港予定先を全て回って、堪能して、全部終わって、横浜に戻ってから監禁だったでしょ。途中で監禁されたら大変でした。鹿児島だったらまだ日本だし、香港やベトナムでもダナンだったら、都会だから病院があるかもしれないけど。

――最後にお聞きします。この騒動を経て、教訓にすべき点は何でしょうか?

防ぎようがないからね…。中国に「隠蔽体質をやめろ」って言っても、中国の隠蔽そのものが直らないから。まあせいぜい「その日その日、納得のいく生き方をしろ」と。「後悔のないように生きろ」ってことです。

※橘田先生スペシャルインタビュー第1回終了(全3回)

7期生卒業おめでとう!

2025年04月09日

卒業式で同窓会のお知らせをしてきました!

春の陽気とともに、今年も卒業式が行われました。キャンパス内には晴れやかな笑顔が溢れ、3月とは思えないほどのあたたかい日差しの中、卒業生たちが最後の思い出を楽しんでいました。

そんな中で、同窓会のお知らせをしてきました。

「卒業してすぐにまた集まる話かい!」というツッコミもあるかもしれませんが、それだけこのご縁を大切にしたいという想いから――。

当日は、こちらのような和やかな雰囲気の中で案内をお届けしました。

もし、これを見ている卒業生(2025年3月卒業以外も含めて)の方で「え!?そんな案内もらってないんだけど?」という方は、ぜひこちらからご登録ください!

また皆さんと笑って会える日を、今から楽しみにしています!

地球の過ごし方特別編【千葉座談会】

2025年02月28日

特定の地域に所縁のある方々を招き、様々な視点から魅力を語ってもらう新企画が始動!長崎、長野に続く第3弾は、あらゆる意味でキャラクターが魅力的な千葉です。

故郷を愛し、誇る者同士が顔を合わせた時に初めて生まれる、果てしなくガチでとことんディープな情報を「地球の過ごし方/千葉特別編」として、自信を持ってお届けします。

【参加者】

荻原叶多
2024年卒の6期生です。出身は佐倉市です。生まれた時からいて、昨年社会人になるタイミングで出たので、22歳まで佐倉市にいました。今は東京の荒川区で1人暮らしをしています。父親は千葉を走っている京成電鉄で働いています。

太田桃香
1期生です。出身は京都の亀岡市ですが、小学校1年生の時から千葉に住んでいるので、千葉の方が長いです。場所は市原です。

石田志歩
私も1期生です。今も千葉に住んでいるんですけど、大学の時は相模原に引っ越しました。船橋出身です。野田元総理の地元で、駅前でビラ配りをしている姿をよく見かけます。

【〇〇だから千葉が好き】

千葉出身の皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます!まずは地元の好きなところを教えてください。

荻原
住みやすいから千葉が好きです。理由はいくつかあるんですけど、1つ挙げるとしたら、自然と都会が両立しているからかなと。神奈川や埼玉も似ているところがありますけど、個人的には1番、上と下で両立している県だと思います。上に行くと船橋や幕張があって、若者が集うエリアなんですけど、下に行くと房総半島と言われる海や山とか、自然を体験できるような場所がほぼ占めています。そういった部分でオン・オフともに過ごしやすい場所になっているのかなと、22年間ぐらい生きてきて思っています。

太田
私も自然があって、都会な面もあるのが1番良いなと思っています。都内に近いし!

市原は田舎で、治安維持のために「カラオケボックスを作っちゃいけない」ってなっていて、ちょっと外れたところに行かないとかないので、そういったところも良いです。公園もいっぱいあって、かずさの道は桜並木がずっと続いていて、そこを歩いて学校に行くみたいな感じだったので、それがすごい私は好きでした。

石田
何にもないから千葉が好きです(笑)。プライドがないって言ったらあれなんですけど…自然はあるし、都内へのアクセスが良いです。そんなに目立った県じゃないとは思うんですよ。よくね、東京ディズニーランドとか、東京詐欺をしてしまうことが多いんですけど、そういう風に「千葉」って意識が強すぎないので、割とそれで住みやすいかなと思います。

〈佐倉市のユーカリが丘で撮りました。僕の地元の隣町です。佐倉市は田舎に見られがちなんですが、「都会的で洋風な建物があるよ」って紹介できる1枚です(荻原)〉

〈佐倉市で夏に行われる花火大会です。県内での規模感でいうと結構上位に食い込みます。高校生ぐらいの時に撮りました(荻原)〉

前提として千葉県は広域に渡るので、地域によって色々な面で違いがありそうですね。

太田
個人的には、浦安、市川、船橋とかは都内へのアクセスが良いから、「住みやすいだろうな」みたいなのは、めっちゃ思うかもしれない。市原はちょっとアクセスが悪いから。

そもそも、あんまり千葉で遊ばなくない?

荻原
都内に出ちゃいそうです。

鴨川とかそっちの方に行くと、旅行みたいな感じになりますか?

荻原
その感覚に近いです。

太田
遠出しようみたいな。

石田
結局、館山や南房総とか、そっちの方に行くための電車があんまりないから。都内の方が全然出やすくて、結局そっちに行っちゃうことが多い。車がないと移動が難しい。

〈日本屈指の観光地、“東京”ディズニーリゾート。東京都に隣接する浦安市にあります〉

【千葉のここがすごい!】

魅力溢れる千葉の特に推したい部分はどこでしょうか?

荻原
若者や外国人向けに発展しようと頑張っているところが応援できるというか、魅力だなと思っています。今ある魅力に甘んじず、成長していこうという姿勢が自分の県としてすごく誇らしいなと。例えば最近だと、船橋に「LaLa arena」という、Bリーグの千葉ジェッツの本拠地ができたり、ライブできる場所を増やしたりだとか。

津田沼って場所は昔、イトーヨーカドーやパルコがあったんですけど、最近潰れて、今は本当に何もない状態なんですけど、市と京成電鉄で協力して盛り上げていこうみたいな取り組みを行っています。映画館を作る計画などを立てているらしいです。そういう全然諦めてない感じが燃えてて、かっこいいなと思います。

太田
ディズニーは王道すぎる?結局ディズニー。私、船橋の高校で、土曜日も学校があって、みんなで土曜日のアフ6とかで、そのまま制服ディズニーに行ったりしていたから、それはすごい青春だったな。楽しかったな。

石田
魅力というか、マスコットキャラのチーバくんの話だと、これ千葉県だけなのかもしれないけど…「チーバくんのどの部分です」で場所を表しやすい。便利だなと思うけど、千葉の人にしか通じてないのかもしれない。

太田
めっちゃ分かる。分かる分かる。

〈チーバくんとふなっしー。チーバくんの体は千葉県の形を表しています。船橋市は顎の辺りです。(C)ふなっしー公式X〉

〈JRでは東京都と千葉県を繋ぐ京葉線があるほか、総武線で東京駅から佐倉駅などまで1本で行けます。場所によってはアクセスが非常に良好です〉

逆に直してほしいところは?

太田
もうちょっとアクセスは良くなってほしいかな(笑)。やっぱり神奈川って都内へのアクセスがめっちゃ良いなと思ってて。千葉は柏とかそっちの方に住んでたら、表参道とかに1本で行けたりするけど、市原や千葉駅拠点だと電車が全然なくて。それが結構嫌かもしれない。直してほしい。

【他県民びっくり?千葉あるある早く言いたいよ】

千葉ならではのエピソードがあれば、是非教えてください。

荻原
千葉県だと小中学校の出席番号が誕生日順っていう。これ、どうですかね?結構有名な話らしくて。普通はあいうえお順なんですけど。

神奈川出身の自分は、あいうえお順でしたよ!

石田
誕生日でした。

太田
誕生日だった気がする。

荻原
以前にこの件を調べてみました。船橋市の教育委員会に聞きに行った記事では、船橋市辺りの八千代市や佐倉市、習志野市、市原市の方だと健康診断とかの都合上で誕生日順らしいです。誕生日によって成長速度が違うから、都合良く見るために誕生日順になってるっぽくて。あるあるらしいです。

石田
逆に、他の県が名前順っていうのが結構びっくりしましたね。

太田
私も知らなかった。気にしたことなかったな。

〈抜群の浸透度、人気を誇るチーバくん。市単位では船橋市にふなっしーがいるように、君津市にはきみぴょんがいて、互いに高め合っています〉

他にはありますか?

太田
さっき出たチーバくんの形は、多分千葉県民はみんな知ってる気がする。市原だと「チーバくんのお腹らへん」みたいな感じで言ったりするけど、他県の人には通じない。

チーバくんは千葉県に相当根付いていますね。

太田
なんかどこにでもいる気がする。

隙あらばチーバですね。船橋のふなっしーはどうですか?

石田
好きな人は好き。電車に乗ってて、ふなっしーのグッズを持ってる人は結構見かけます。

太田
あと千葉あるあるでいうと、外国人に「どこ出身なの?」「どこ住んでるの?」って聞かれた時に「東京」って言っちゃう。「Chiba prefecture」じゃ通じないから(笑)。「どこ?」ってなっちゃうので、「Tokyo」って言う。

〈羽田空港と双璧をなす成田空港。1978年に開港してから2004年に民営化されるまで、正式名称は新東京国際空港でした〉

それは東京ディズニーランドや東京ドイツ村なども多分、同じ理由ですよね。名称に「東京」が付くことは、千葉県民はどう思っていますか?

荻原
すいませんって感じですよね(笑)。

太田
確かにすいませんって感じ(笑)。

石田
嘘ついてごめんなさいみたいな(笑)。

【落花生だけじゃない!給食でも出るご当地料理】

代表的な名産品である落花生の他に有名な食べ物、料理は何ですか?

石田
鰹のたたき、あれ千葉じゃない?勝浦とかの方の名産物として、たたきが作られてる。

太田
給食でよく出てた、ピーナッツ味噌は?

荻原
うわ!みそピー。

太田
私は好きじゃなくて食べてなかったけど、「絶対給食に出てくるな」みたいな。調べてみてほしい。みそピー。あっ、ピーナッツハニーか。ピーナッツハニー調べてみて。

給食に出てきませんでした?

荻原
出てきました、出てきました。

石田
ありました、ありました。

荻原
おつまみみたいな。

石田
あとクジラが出てきましたね。クジラ肉とあえたやつみたいな。レバーのあえたやつみたいなのあるじゃないですか。あれのクジラバージョンみたいなのが出てました。

荻原
お正月に食べるお雑煮って、各地で全然違うじゃないですか。千葉県は、あおさが入ってるのが特徴らしいです。理由までは調べられなかったんですが、昔からずっと入れてるらしくて、それが根付いてるらしいです。

【マイ・ベスト・フォト・オブ千葉】

地元で激写したベストショットを紹介してもらいます!

荻原
これが1番思い出というか、「千葉良いな」と思った時の写真です。館山の方にある、森羅っていう超高級ホテルで、菅田将暉とかが来てるようなところです。

妻の小松菜奈と一緒に?

荻原
あぁ、らしいです。それが面白いなと思ったのでちょっと行ってみました。そこで撮った、千葉の下の部分というか、房総半島を感じられる1枚です。空気が綺麗で、この夜も星がすごく綺麗だったので、「田舎良いな」と思いながら、ずっと見返しちゃう写真ですね。

荻原
この2枚も館山のホテルで撮った写真です。海の近くにあります。

太田
地元で、この道が本当に何100メートルというか…始まるところから学校までの徒歩20分くらいずっと続いていて、さらにずっと続いてるみたいな。めっちゃ長いです。春は満開になってて、すっごい綺麗。地元民が知ってるみたいな感じ。観光スポットにはならないけど、地元の人にはお馴染みというところがお気に入りかな。

石田
私の最寄駅です。こんなに霧がかかってることはないなっていう…田舎感が伝わるかなと思って、選びました。

ピンクの電車も特徴的ですね。

石田
新京成っていう超ローカルな路線があって、そのコーポレートカラーがピンクなんです。ただ、京成に買収されて、新京成という路線はもうすぐ消滅します。京成松戸線になるみたい。

荻原
青になっちゃうらしいですね。

石田
あっ、青になるんですね。

太田
新京成めっちゃ使ってた!

〈京成電鉄の公式キャラクター、京成パンダ 。P-78星雲に浮かぶパンダ星を治めるパンダ王家の王子で、 趣味はエコロジー活動です〉

【ライバルは〇〇県】

ずばり意識している県は?一斉にオープンしてください!

太田
うわ!みんな同じだ。

石田
みんな同じだね。

荻原
やっぱそうですよね。

自分は勝手に埼玉だと思っていました。

太田
いや埼玉は違うよね。神奈川はライバル視はしてるけど、ちょっと敵わないみたいな(笑)。

荻原
確かに(笑)。追いかけてる感がありますよね。個人的には「戦ってるステージが違うけど、追いかけなきゃいけないな」みたいな。

太田
分かる分かる。

荻原
東京で働く人って神奈川か千葉に住みがちな気がするので、その方々を「どうこっちに住まわせるか」みたいな戦いをしてる気がしています。

石田
ベッドタウンみたいな意味でも結構良い勝負をしてるかなってところと…敵わないところとしては、やっぱり繁華街とかの栄え具合が全然違うので、そういうところはちょっと難しいなと思っています。

ただ、魅力的には「千葉の海や山の自然で戦えば、いけるかな」みたいなところはあるので、割と観光地とかだったら、ぎりぎり勝負になる?

〈房総半島内陸部の君津市に位置する自然公園です。川廻しの洞窟から差し込む光が水面に反射し、ハート形を描き出す写真が大きな話題になり、インスタ映えスポットとして有名!ハート形に見えるのは、3月・9月のお彼岸の時期、早朝が良いとされています〉

〈千葉にいながらカリフォルニア気分が味わえる「千葉フォルニア」。ヤシの木が並ぶ光景は壮観で必見です。三井アウトレットパーク木更津から車で10分の場所にあります〉

神奈川が挙がるとは思わなかったです。しかも3人揃ってとは。

太田
でも私は、神奈川一択だったかも。

大ヒットした映画「翔んで埼玉」でも構図として、埼玉vs千葉があると思います。埼玉は千葉にとってどういう存在ですか?

太田
眼中にない(笑)。

荻原
やっぱり観光する場所が少ないなと。ショッピングモールでいうと越谷レイクタンとかはあると思うんですけど、そういうのが母数として少ないから、あっちはあんまり戦えてないかなって感じはします。

石田
これはもう私の完全な偏見なんだけど、埼玉の人は池袋に憧れているイメージがある。別に千葉と戦うってよりかは、埼玉は埼玉で東京を目指して走ってるみたいな。

実は、「池袋は埼玉」って説もありますね。

太田
そのイメージしかない(笑)。

【プロチーム多数!県内のスポーツ事情】

県内にスポーツチームが結構ありますよね。プロ野球の千葉ロッテマリーンズはどういう立ち位置ですか?盛り上がりは感じますか?

太田
試合を見たことはないけど、球場に行ったことはある。

荻原
ポスターとかをよく見る気がします。新京成とかも千葉ジェッツや千葉ロッテとタイアップしたりするので、車内や電車のラッピングでの広告はすごい見ます。結構「地域に根差してる」と思っていますが、球場に行っている地元民を見たことがないです。自分もファンではあるんですけど、行ったことがあんまりなくて、他県から来てる印象を勝手に持っています。

石田
最近のロッテはあんまり分からないです。小学生ぐらいの時は結構球場に行って、応援していたので、私の中ではバレンタイン監督辺りのロッテが1番流行っていたというか、盛り上がっていました。

〈千葉ロッテマリーンズの本拠地、ZOZOマリンスタジアム(上)。海浜幕張駅から徒歩で15分ほどです。近くには日本最大級のコンベンション施設、幕張メッセ(下)があります〉

Jリーグは柏レイソルとジェフユナイテッド市原・千葉の2チームがありますね。県内での対立構造は感じますか?

太田
正直、あんまり応援したことがないけど、市原だから、中学生の時にジェフの無料券をもらったことがあります。行ってないんですけど(笑)。でもそういうので、「中学生とかにも普及しようとしているな」ってのはすごい感じるから、自分はそこまで興味がなかったけど、存在は絶対知ってるみたいな。柏の方はあんまり知らないです。

それこそ、高校生の時に新京成を使ってたから、電車内で千葉ジェッツの選手を結構よく見てたよ。船橋日大前が本拠地で、私の高校の場所が船橋日大前と北習志野だったから、まじでよく見てた。めっちゃ背が高い外国人が電車に乗ってたりしてた。

〈千葉県内には千葉ジェッツふなばしに加え、千葉市に拠点を置くアルティーリ千葉というバスケットボールチームもあります。これは後者の本拠地、千葉ポートアリーナで撮った写真です〉

〈1992年のJリーグ発足時に加盟したオリジナル10の1つでもある、ジェフユナイテッド市原・千葉。ホームスタジアムのフクダ電子アリーナは、蘇我駅から徒歩8分の場所にあります〉

【No.1スターを決定!県民栄誉賞】

千葉県のスターといえば、誰でしょうか?

石田
マツコとか?

太田
私もマツコ。

マツコ・デラックスと木村拓哉は同じ高校ですよね。

石田
キムタクも千葉なのか。

太田
マツコか山Pかなと思った。

山P主演の「コード・ブルー」も千葉で撮影していますしね。太田さんは小島瑠璃子と同じ学校じゃなかったっけ?

太田
そう。中学校が一緒で、塾も一緒。だから会ったことがある。

ではNo.1のスターは誰だと思いますか?

荻原
僕はバンドが好きで、BUMP OF CHICKEN。メンバーの皆さんと地元が全く一緒で、小中一緒なんですよ。

石田
えー!すごい。

太田
すごい!

荻原
学校にサイン色紙やギターが置いてあったりして、ずっと「スター」って叩き込まれていたので、自分にとってのスターはBUMP OF CHICKENです。

1番を決めるために、多数決を取りましょう。大衆の意見に寄せないで、自分が思うNo.1で大丈夫です!

石田
マツコかな。いや、でもキムタク…やっぱりマツコでいきます。

荻原
自分の地元のスターはBUMPなんですが、やっぱ千葉のスターでいくと、キムタクかなと思います。男に与えている影響は計り知れないので。

太田
うわー…でもやっぱマツコかもしれない。全員が知ってる日本人だし、テレビを見てて面白いなって思う。私も「月曜から夜ふかし」とかよく見てる番組があるし、やっぱ影響が大きいかなっていうのがあって、1位かな。

長崎の福山雅治、長野の久石譲に続いて、千葉はマツコ・デラックスで決定です!

〈船橋市出身の山下智久さん主演の大人気作品「コード・ブルー」。千葉県が舞台で、印西市の日本医科大学千葉北総病院などで撮影が行われました。(C)フジテレビ〉

【いざ聖地巡礼!千葉が舞台の作品】

地元ゆかりの有名人と同様に、千葉が舞台の作品も多いですよね。撮影を見たことはありますか?

石田
ないな。

荻原
ないかも。

太田
地元のショッピングモールで「翔んで埼玉」の撮影があったりとか、母親が働いてた病院がめっちゃ撮影で使われてて、見に行ったことがある。あと話がずれちゃうんだけど、そのショッピングモールに「ハリー・ポッター」のマルフォイが来たことがある。なんでかよく分からないけど(笑)。撮影とは違うけど、そういうのも。結構使われたりしてる。

やっぱり地元が舞台だと嬉しいですよね。

荻原
嬉しいし、映ってたら分かりますよ。「あっ地元だ!」みたいな。

石田
ちょっと話題になったのは、市立船橋高校の吹奏楽の映画。その時にちょうど市船が甲子園に出場しました。「市船soul」っていう応援歌を作った高校生の話です。

〈ショッピングモールが各地にあり、お買い物に便利です。三井アウトレットパーク幕張(上)や三井アウトレットパーク木更津(下)は連日、多くの人で賑わっています〉

【これであなたもチバニアン!方言を習得だべ】

あまりイメージはありませんが、千葉に方言はありますか?

荻原
あります。友達に言われて気付いたんですけど、「〇〇だべ」って言うのが千葉弁らしいです。

太田
あー、らしいね。

神奈川でも言いますね。

荻原
色んなとこで言うんですけど、調べたら千葉弁っぽいみたいな。自分でも結構言ってる気がします。仲が良い友達には、「なんとかだべ」みたいな。

太田さんは生まれが京都ですよね。京都弁になったりはしないですか?特にならない?

太田
家だと関西弁みたいな感じ。こっちに来た時から切り替えできるようになっちゃったから、外ではもう普通に話します。

方言への憧れはありますか?

石田
私は結構、方言が羨ましい。地元に帰った時に出る言葉があると、地元にいた人というか、「その地域の人!」って感じがします。地元愛じゃないですけど。方言があったら可愛いなとも思います。

〈物井駅近くの田んぼです!田植えは普段使わない筋肉を使うので、筋肉痛になったのを覚えています(石田)〉

〈新勝寺の近くにある成田山公園で撮った写真です。外国人にもすごく人気があります(荻原)〉

【地球人も宇宙人も必見!ホットスポット】

火傷するほど熱い、おすすめスポットはありますか?

石田
私、鋸山がめっちゃ好きだったんですよ。

太田
行ったことある!

荻原
僕もあります。

石田
崖の上に行けたり、壁の中にお地蔵様みたいなのが埋まっています。結構面白い。子供の頃に何回か行って、ついでに鴨川シーワールドに寄って遊んで帰っていました。プチ旅行。鴨川シーワールドに白イルカのベルーガがいて、その子がすごい好きで通ってました。

〈オランダ風車がシンボルの佐倉ふるさと広場。春はチューリップ、夏はひまわり、秋はコスモスなど四季折々の花々が楽しめるのも見所です〉

荻原
成田山公園は良いなと思っています。すごく広い場所なので、本当に半日いれます。その後、成田でご飯を食べたりしていただいても大丈夫です。

佐倉ふるさと広場にも是非行っていただきたいです。僕の家から徒歩10分ぐらいのところです。風車とチューリップが有名な場所で、かなり推せる場所かなと。

太田
養老渓谷はすごい有名だから、行ってみたいなとずっと思ってる。有名な滝がある。

【千葉よ、永遠なれ】

素敵なお話をたくさんありがとうございました。最後に、故郷に向けてメッセージを!

〈ベストショットで挙げた桜並木とはちょっと違う場所の写真です。家の近くです。桜が本当にいっぱいあります(太田)〉

太田
今の自然や都会の部分を残しつつ、アクセスをもうちょっと向上させてくれたら、「千葉めっちゃ良いじゃん!」ってなる。今も良いけど、それがあれば私はもう不満はないかな。

〈僕の実家の目の前から撮った写真です。住宅街です(荻原)〉

〈最寄駅、京成臼井です(荻原)〉

荻原
自分は今、日暮里、上野の近くに住んでるんですけど、結構海外の人が住み始めていて、治安が悪くなっていると感じます。今後段々、神奈川か千葉、多分成田空港に近いので千葉の方に住みそうですし、千葉の下の方への旅行も増えるはずです。海外の人の流入が増えてくることが見込まれ、自分が好きな街や、皆さんの地元の治安が悪くなりがちです。どう治安を守っていくかを考えながら、発展していってほしいです。

〈私の最寄駅から本当すぐ近くに病院があって、その病院の上からよく目を凝らすと富士山とスカイツリーが見えます(石田)〉

〈公園が近くにあるので、家族でキャッチボールをしに行った時の様子です(石田)〉

石田
住みやすいというか、程良くのどかなのは、すごく良いところだと思います。東京ほど発展し過ぎてなくて、すっごい人がいるわけでもなくて、程良く栄えてる、程良く田舎みたいな。バランスがちょうど良いところも魅力です。あとは私も、アクセスが良くなってほしいです(笑)。

See you next time!

箱根駅伝V8!熱烈応援記

2025年01月03日

〈青学がトップでフィニッシュテープを切る直前の大手町〉

2025年1月3日、青山学院大学が新記録の10時間41分19秒で箱根駅伝を制しました。ここ11年で8度目の優勝です!

ゴール地点の大手町に笑顔が溢れ、「あいたいね大作戦」を見事に遂行した数時間前――。我が地球同窓会は、国政経と経済の同窓会の皆さんと共に京急蒲田の応援拠点に集まりました。

〈京急蒲田駅の前に集合。少し心配された雨は降っておらず、冷え込みもそこまで激しくありません〉

〈竿を通し、のぼり旗を立てるレクチャーを受けました〉

〈マスコットキャラクター「えこぴょん」を手に持った法政大学の方と記念撮影〉

〈エリック先生も駆けつけてくれました!〉

のぼり旗を立てる竿の到着が遅れるトラブルはありましたが、横の法政大学の方々ともコミュニケーションを取りながら、親睦を深めることができました。さらに学部長の松永エリック匡史先生も登場!地球10周年イヤーに弾みをつける有意義な機会となりました。

〈選手の通過時間が近付き、かなり人が集まってきました〉

〈歩道橋の上から見るとこんな様子です〉

〈反対車線からも確認。皆さん準備ばっちりです〉

〈ついにその時が!小河原選手が物凄いスピードで京急蒲田を駆け抜けました〉

そうこうしているうちに時刻は12時半。10区を走る1年生アンカー、小河原陽琉選手が京急蒲田駅前を通過する時間となり、全員で熱烈な「ヒカル」コールを送りました。目の前の通ったのは本当に一瞬!トップランナーのスピードを肌で体感できたことも非常に貴重な経験となりました。やはり応援は生に限ります。

改めて、青学優勝おめでとう!

【スペシャル現地インタビュー】

応援を終えた後、2期生の佐々木ニキさんがインタビューに応じてくれました。非常に興奮した様子です!

――参加してみてどうでしたか?

やっぱり地球の学生が走ってくれるとワクワクします。生で見るのとテレビで見るのとでは全然違いましたね。

――他学部の先輩、法政の応援団など色々な方々との交流もできました。

青学の旗を持っていると、本当に小さい小学生からたくさん声を掛けてもらえました。「写真撮ってください」とか、そういうのを言ってくれるのが嬉しかったです。

――また来年以降も参加したいですか?

また是非、参加したいと思います!

See you 102nd!

同窓会活性化へ!旧短大教室とイチナナで表裏話

2025年03月02日

日中は暖かさが感じられるようになった3月1日、青山学院大学は旧短大校舎N101で、同窓会連携・活性化検討会が開催されました。これまでは各同窓会の会長が出席していましたが、今回から立場関係なく集まり、昨年からのテーマである「若手に同窓会の担い手として協力いただくには」を話し合いました。

普段立ち入ることのない旧短大の教室で、13時からたっぷり2時間行われた検討会は、若手への直球インタビューからスタート。SNSの活用方法や同窓会活動が億劫に感じられる理由など、多種多様な質問が飛び交い、約15分押してしまうほどの白熱ぶりでした。

後半は赤・青・黄色・ピンクの4グループに分かれ、ディスカッションを実施。同窓会員と予算の集め方や、各同窓会の活動内容、苦労話に花を咲かせました。そして模造紙に話した内容をまとめ、他のグループに報告。切り口も実に様々で、新たな発見の連続でした。

〈青山キャンパス内で咲く桜。皆さんが揃って写真を撮っている姿が印象的でした〉

最後は、青山キャンパス17号館の食堂、通称イチナナで懇親会を行いました。学食のシェフが腕を振るった美食を楽しみながら、同窓会よもやま話の延長戦です。昨年9月の各同窓会HP会議の際にお会いした尾崎豊さんの同級生に続き、今回はサザンオールスターズの桑田佳祐さん、原由子さんの同級生が同じテーブルに座っていたため、ミーハーにはたまらない裏話も聞くことができました。

さらにディープな厚木キャンパス伝説も!この話題に関しては、近いうちにインタビューを実施し、「後世に語り継ぎたい厚木キャンパス」として、より掘り下げていく予定です。地球同窓会の2025年度の活動も是非ご期待ください。

地球の過ごし方【深圳】

2024年12月19日

〈2024年7月から香港に隣接する広東省の深圳で暮らしている易京さん。早稲田の大学院を卒業するなどした後、外国人に向けた日本語の先生をしているそうです。11月に結婚したばかりのなか、インタビュー序盤から頼もしい助っ人が参戦してくれました!〉

――今日は中国から参加してくれてありがとう!まずは魅力から。住み始めて約半年が経つなかで、深圳のどんなところに特長を感じる?

易京

若い、エネルギッシュかな。深圳自体があまり歴史が深くなくて。中国っていうと、北京とか4000年の歴史をパッと思い浮かべると思うんだけど、深圳自体がすごい若い街。

例えば、中国を代表するようなIT企業が全部深圳に集まっていて、テンセントやファーウェイとかの本部がある。今、中国ですごい電気自動車が流行ってるんだけど、「世界でシェアが1番」って言われてるBYDも深圳の企業で、とにかく若い人たちが集まって頑張って仕事してる街って感じ。深圳が地元の人が少ないんだよね。

――さすが「中国のシリコンバレー」だね。そもそも、なんで深圳に企業が集まるの?

易京

政府に経済特区みたいな感じで認定されて、開発が色々進んでいるらしいよ。

――地理的に香港に近いのは関係するのかな?

〈ここで易京さん曰く「私より1年先に深圳に来てるから、色々知っている」夫、敖子峤さんが登場!さらにディープに掘り下げてくれました〉

敖子峤

近いから、香港の企業とかが多分、接続しやすいように深圳を選んでます。深圳と香港は小さい川を隔てているんです。昔は密入国みたいな感じで、川を泳いで香港まで行ってたんですよ。だから「香港の手前ででっかい街があれば、香港に行かないでしょ」ってことで発展していった部分もあると思います。昔は漁村で何もなかったんです。

――日本だと大きな会社が全部東京に集まっているイメージがあるけど、中国は北京に一極集中ではなさそうだね。

易京

これも前に旦那が話してたんだけど、東京って政府があったり、経済圏も全部集中してるけど、中国は意外と分かれてる。政府関係が北京に集まっていて、上海とかだと、深圳に比べてすごくインターナショナルで、日系企業も多い。深圳はどちらかというと、中国人にとって出稼ぎの街というか、若い人たちがチャンスを求めて働きに行く街。

飛行機を降りて空港に着くと、でかでかと「来たら、深圳人」みたいな標語が書いてあるんだよね。中国って日本みたいにすぐ「どこ出身なの?」って聞くんだけど、深圳は「みんなウェルカム!」って感じ。「来たら、あなたはもう深圳の人だよ」って標語を色んなところで見かける。

――深圳に住んでいてグローバルだなって感じる?

易京

あんまり…そんなにグローバルな感じはしないかな。東京の方が全然外国人が多いし、上海の方が全然グローバルだと思う。英語も通じないかな。若くて深圳の大企業で働いてる人は喋れるけど、コンビニとかで言っても通じない。

――事前に調べたところ、深圳は出稼ぎの人が多いから、広東省だけど広東語ではなく、一般的な北京語を話すみたいだね。

易京

そうなの。広東語は日本語でいえば関西弁よりも癖が強くて、北京語とは違う言葉なんだよね。私は広東語ができない人だから、広東語で喋られても何を言っているのか分からないんだよね。

――覚えておくと便利な現地の言葉は?

易京

「ハオ」とかいいかもね。「オッケー」みたいな意味。「好」って書いてハオ。你好(ニーハオ)の「好」。中国人は電話で大体「ハオハオハオハオハオハオハオ」って言って切るんだよ。「ハオハオハオハオハオハオハオハオハオハオハオ」て言ってガチャってやる(笑)。だから「オッケー、分かった」の感じで、「はい」とかじゃなくて「ハオ」って言えばいいんだよね。

〈中国の日常風景〉

――日本と比べて驚いたことはある?

易京

11月から中国のインターナショナルスクールの高校で働いているんだけど…例えば日本だったら年度の行事予定表が決まってて、その通りに進んでくって感じじゃない?ここはね、2週間前とか1週間前に決まる(笑)。今月急にオープンキャンパスをやるって言い出したから、先生たちに「オープンキャンパスって毎年やるやつなんですか?」って聞いたら、「いやいや今年から。上の人が急にやるって言い出して」って。私は「え?」「それあり!?」みたいな。

考え方としては、日本みたいに仕事を第一に置いてないのかな。日本だと仕事ですごいミスをしちゃった時に「申し訳ございません!」って土下座する勢いで、本当に辛く感じるんだけど、中国は違う。みんなプライベートの方が大事だから、仕事はある程度頑張ってこなして、なんだろうね、大きな騒ぎにならなければいいっていうか。それがみんなの共通認識になってる。

「仕事が第一だ」って人もいれば、「家族が第一だから、普通に仕事の範囲内で頑張ればいい」って人もいてバラバラだったら意見が対立することもあると思うけど、みんな「仕事よりもプライベートの方が大切」って道徳的な観念が染みついてるから。何かあっても「まあ、そうだろうな」って受け入れやすい。

――食事はどう?深圳料理はある?

易京

ある!ココナッツウォーターを出汁にした鳥鍋がある。めちゃくちゃ美味しいよ。2、3個ぐらいのヤシの木の実の中から、ウォーターを鍋に注ぎ込んで、その中に鶏肉を入れて10分ぐらい持って、そのまま食べる料理。素材の味が本当に美味しくて、鳥の出汁とココナッツウォーターがちょっと甘みがあるから、飲んでも美味しいし、ちょっとタレをつけてもすごく美味しい。

ヤシノキって言ったら、海南島をイメージすると思うんだけど、その鍋の発祥は深圳らしくて、ほぼほぼ唯一のご当地グルメかな。みんな出稼ぎで地元民がいないから、中国全土から集まってきたグルメがある感じかな。

――日本の中華料理とは全然違う?

易京

全然違うとは言わないけど、中国って地域ごとの料理の特色がはっきり分かれてて…例えば四川料理だったら、日本と比べ物にならないぐらい辛いものが出てくる。日本の中華料理って大体決まってるじゃん?酢豚や小籠包とか。なんかちょっと甘い味付けじゃない?でも中国に来ると、それぞれの地域の料理がすごいはっきりしてるから、そういう感じで違うのかな。バリエーションが増えて、もうちょっと深みが増す感じ。

――飲み物に特徴はある?

易京

日本でタピオカミルクティー屋がすごい流行ったじゃない?あれが中国ではブームっていうより定着した。最初は多分、タピオカミルクティーから始まって、今はバリエーションがものすごいの(笑)。タピオカ屋よりかは、気軽に楽しめるスターバックスみたいな。色んなトッピングや自分でカスタマイズができるし、フルーツティーとかもある。繁華街とかだと、そういう店が10メートル歩いて1軒あるみたいな感じ。すっごいあるよ(笑)。

――中国の人は、お酒は結構飲む?

易京

ちょっと来てー。私はあんまり飲まないんだけど、飲む人は飲むらしいね。

〈ここから敖子峤さんがガッツリ参戦!夫婦での座談会スタイル、スタートです〉

敖子峤

飲む人は飲む。4、50度のお酒とか、飲みニケーションが日本よりきついです。お酒の礼儀作法が日本よりも多いですね。やっぱ酒の文化は中国からって感じ。日本でも「上司にお酒をつぐ時は、ビール瓶のラベルを上」とかあるじゃないですか。そういう系で、誰がどこに座るかとかも全部決まっていたり、上座の人に1対1で挨拶に行く必要があるみたいな。

易京

それ私も知ってる。自分でお猪口を持って「お疲れ様でした!」ってついで、「乾杯!」って飲み干さなきゃいけないんだよね。お酒をついで乾杯するのが、「相手を敬ってる」っていうような意味があるらしくて、歓迎会とかだと新人が偉い人から順に回っていって、お酒を飲まなきゃいけない。

敖子峤

そうそうそう。業種によってはお酒の席で関係や人脈を作ったりする。だから、営業とかの人はガチで職業柄飲まなきゃいけないみたいな。日本でも若干そういうのありますよね?

――日本だと「そういうのはやめよう」って風潮があると思うんですけど、中国ではどうなんでしょうか?

敖子峤

抵抗はありますね。最近は忘年会に行きたくないって人が出てきてて、要は「上司をよいしょしなきゃいけないのがめんどくさい」とか。それはありますね。ちょっとお酒離れも始まってて。ただ、その流れはゆっくりじゃないですかね。業種によっては、目上の人や上司にお酒をつぐのはやらなきゃいけないので。

易京

中国国営企業や政府関係の人たちは、止めたくても止められないんだろうね(笑)。

敖子峤

だから結局、付き合いで行かなきゃいけない。

――深圳の気候はどうですか?

敖子峤

深圳はクソですね(笑)。暑くて湿度が高いんですよ。湿度が高すぎて常時70、80%です。沖縄より南にあるので、完全に熱帯海域の気候です。

深圳はちょっと海岸沿いなので、夏の温度自体は30ちょいぐらいなんですけど、その時期は湿度が80%、90%あります。外に出たら基本的に汗は噴き出るけど、乾きはしないって感じです。

――四季はあるんですか?

敖子峤

ないかな。

易京

ほぼほぼない。私からしたらタイみたいな感じ。でもタイよりじめじめしてる。

敖子峤

今は冬だけど最高気温が20度ぐらいなんですよね。あと今年の話で、花を植えてるんですけど、3日ぐらい雨が降ったら植木鉢からキノコが生えてきました。

〈深圳の南山区の海岸沿いから見た夕日〉

――交通の便についても教えてください。深圳で電車は結構走っていますか?

敖子峤

走ってます、走ってます。結構ちゃんと走ってます。交通の向きによっては、ちょっと不便なところがあるので、それを改善しようみたいな感じで、新しい線を掘ってたりもします。

バスは全部、電気自動車で走ってます。

易京

私は今日、バスで仕事から帰ってきたんだけど、バスのところに「BYD」ってマークがあって、BYDの電気自動車だった。

〈バスの車内で撮った写真!BYDのマーク見えるかな?(易京)〉

敖子峤

深圳はBYDのお膝元で、本社があるので。他の会社は北京とかに本社があったりするんですけど。タクシーも全部BYDですね。

――飛行機もBYDですか(笑)?

敖子峤

さすがにまだ電気化してないので(笑)。 将来、電気化したらあるかも(笑)。

易京

空の上で「電気がなくなった」とか言われたら怖いな。やだな(笑)。

――電気自動車が多くなって排気ガスが減ったから、空気が良くなったって話を聞きます。それは感じますか?

敖子峤

自分の地元が河北省で、北の北京の方で、昔「中国で1番空気が汚い」って言われていた辺りなんですけど、今はだいぶ良くなりましたね。深圳とかは海岸沿いなので、まだ昔から良い感じではあります。多分、車の排ガスというよりは、工場を分散させたり移転させたりしたのが大きい気もします。

〈私の実家の湖南省で、張家界というところ。アバターのモデルとして有名かも!(易京)〉

――日本と比べて物価はどうですか。

敖子峤

日用品と普通のご飯は安いんですけど、ブランド物や嗜好品は日本より高いです。中国はそういう値段の付け方をしてます。日本の方がブランド物は安いんで、旅行に行くと買いに行ったりします。爆買いの対象です。

易京

免税になって安いし、日本に行ったらみんなに「あれ買ってくれ」「これ買ってくれ」って頼まれる。

――爆買い中国人は秋葉原で見かけることも多いですが、深圳には世界最大級の電気街、「華北強」がありますよね。

易京

そこで、この前一緒にパソコンを買ってきたよ。

敖子峤

中国人が秋葉原に行く理由は、どっちかっていうと二次元とかの方じゃないですか。サブカルの方で行くんだと思います。電気系でアキバに行く必要はあまりないと思います。

――やっぱり日本のアニメは人気ですか?

易京

今働いてる学校の生徒たちも好き。この間運動会だったんだけど、その閉幕式でコスプレした女の子たちが出てきて踊ったりしてた。みんな普通に受け入れてる。運動会の夜にあった後夜祭では、YOASOBIの『アイドル』も流れたりしてて、すごい盛り上がってたよ。

――具体的にどの曲やアニメが人気ってあったりする?

易京

流行ってるのは大体日本と一緒かも。あ、そうだ!中国で『ちいかわ』がめちゃめちゃ流行ってる。中国に無印かどっかをパクったMINISOがあるのは知ってる?そこが『ちいかわ』やサンリオとコラボして、グッズを出しまくってる。オフィシャルだと思う。

〈たまたま『ちいかわ』がない店舗だったけど、サンリオの商品がたくさん並んでたよ!(易京)〉

――先日に出張で福建省の廈門に行った際、久石譲さんと新海誠さんの映画のコンサートのポスターがかなり大きく貼られていました。中国でも知名度はかなりありますか?

易京

あると思う。こっちでジブリが大人気。だけど、みんなジブリって呼び方をしてなくて、「ミヤザキハヤオ」って呼んでる。ジブリって言うと逆に伝わらなくて、みんな「ミヤザキハヤオ、ミヤザキハヤオ」って言うくらい、宮崎駿さんがすごい有名。ジブリっていうよりかは、「宮崎駿が作った映画」ってなってる。

――ということは、中国で1番有名な日本人は宮崎駿さん?

易京

どうだろう。でも今学校で働いてて、「宮崎駿」って言ったらみんな分かるの。私は卒業した高校が宮崎駿さんの母校で、初めて授業する時の自己紹介で大体言うんだけど…「ジブリって知ってる?」「宮崎駿って知ってる?」って言ったら、みんな「うん」って。「同じ高校で私の先輩なんだよね」って言ったら、「えっすごい!」みたいな反応をしてくれる。

だから私は宮崎駿さんでいいかな。

〈街に溶け込むトトロ〉

――敖子峤さんは中国で1番有名な日本人は誰だと思いますか?

敖子峤

ニュースとかの話が多いので、ちょっと前だったら首相の岸田さんとかですかね。そっち系がパッと浮かびやすいです。

――芸能人でいうと誰かいますか?知名度が高い日本人。

易京

若い人だったら、みんな石原さとみさんを知ってるの。イシハラって名字が「石」に「原」じゃん。それの発音が中国だと「ジュウゲン」と一緒で。数字の「十」と人民元の「元」。だからみんな「イシハラ」って呼ばないで、「ジュウゲン」って呼んでるの(笑)。「ジュウゲンサトミ」って呼んでる。あだ名を付けて、それですごい親しまれてるのかな。

敖子峤

欧米の俳優にもあだ名を付けてます。『デッドプール』の主役、ライアン・レイノルズは役の影響か知らないけど、中国で「リトルビッチビッチ」って呼ばれてる(笑)。英語で「リトルビッチビッチ」って呼ばないんだけど、中国語を直訳したら、ちっちゃいビッチみたいな名前で(笑)。全然悪い意味はなくて、むしろ愛を込めてそういう変な名前を付けてます。

〈日本から連れて帰ってきた璎璎(インイン)と団団(ダンダン)です。我が家では日本語も中国語も喋るので、この子たちはきっとトリリンガルです(笑/易京)〉

――逆に1番有名な中国人は?

易京

起業家じゃない?ジャック・マー(馬雲)とか。

敖子峤

XiaomiのCEOとかも。最近車で盛り上がっててよく見るんですよね。日本だとスマホがメインですけど、こっちだと家電がXiaomiブランドで一通り揃う感じで、スマート家電一式全部売ってるみたいなところです。そこのCEOは結構SNSでの露出が多くて。

易京

CEOなのにキャラが親しみやすい感じなんだよね。ニコニコしてて。

敖子峤

しかも割とちゃんとしてる人。多分真っ当な企業家で、私利私欲ってよりかは、ちゃんと会社のことを考えてるみたいな。SNSは割とイメージ戦略だったりするけど、インタビューではめっちゃ真面目なことを言ってます。

――スポーツの話も聞きたいです。1番人気のあるスポーツは?

易京

高校でみんなに「スポーツ何やってるの?」って聞くと、ダンスやバドミントンをやってるって子が多い。みんなバドミントンやってるの。世代の差も結構あるのかな。

敖子峤

うちの代はバスケが多いかな。

易京

うちの高校の男子はみんなバドミントン。学校終わりや、2時間ある昼休みにやってたりする。

――世界的に人気なサッカーは盛り上がってる?

敖子峤

サッカーはぼろくそ言われる方で盛り上がってます。サッカーリーグが賭けや裏操作とかあの辺でぐちゃぐちゃなので。サッカー自体は好きな人は多いです。

――やっぱりサッカーの中国代表戦があるとみんな見ますか?

敖子峤

大体見てるかな。スポーツ好きな人は大体見ますね。

〈都市の中に潜む別天地、甘坑古鎮。深圳の10大古村落の1つです〉

〈夫の両親がいる浙江省の寧波(易京)〉

――最後におすすめの観光スポットを教えてください。「深圳に来たら、ここ行った方がいいよ」って場所を是非!

易京

深圳は本当に働きに来る街って感じで、歴史もそんなにないし、遊ぶ場所もそんなにないの。でも、深圳って港だから、昔東南アジアとかに出稼ぎに行ってた華僑たちが、帰ってきて住んでた跡があって、そこに行ってきたんだけど、まあまあ面白かったよね?

敖子峤

商業化はしてた。良い感じのところだったね。深圳湾の辺りは有名かな。夜景やビル群とか。だけど、もっとすごいのだったら上海とかの方があるし、見渡せるのが大企業のオフィスビルなので、社畜しか見えないんですよね。

〈深圳の南山区で、東京でいうと港区みたいなところ。日本の東京駅周辺とあまり景色が変わらなかったよ(易京)〉

易京

別に東京と変わんないしね。この前、夫の妹がこっちに遊びに来て、2人でタクシーに乗った時に、運ちゃんに「どっか遊ぶとこないですか?」って聞いたら、「なんもねえよ!」「なんで深圳に遊びに来ようと思ったの?」って言われて(笑)。「ああ、そうですよね」って。

でも広州に行くのに新幹線というか、高鉄で30分ぐらいだし、香港に行くのも30分ぐらい。

敖子峤

香港、広州のラインがめっちゃ行きやすいですね。

易京

だから、深圳で遊ばないでそっちに遊びに行く人が多いかも。

――貴重なお話をたくさんありがとうございました!ハオ!

〈是非遊びに来てね〜来たらあなたも深圳人!(易京)〉

地球の過ごし方【広州】

2024年12月11日

〈高校3年間を広東省の広州で過ごし、現在は神奈川で暮らす劉敏安さん。横浜の中華街で食事後、大さん橋で熱く語ってくれました〉

広州の序列
何番目かは難しいけど、上海とかと同列クラスだと思う。結構ビジネス都市だね。

魅力
大胆になれる。そもそも民族性が適当で、ぐいぐい行くタイプの人が多い。自分もそこにいるとそういう感じになっちゃう。だから中国にいると本当無敵だよ。何をしても大丈夫!羞恥心がなくなる。結構オープン。本当に正直に率直に言うし、やりたいことをやるしみたいな。列を抜かされたりするから、悪いこともあるけどね。自分の利益を1番優先する文化で、みんなそういう感じだね。

〈ゆったりと過ごせる広州白雲国際空港内のラウンジ。空港自体、北京、上海と並んで「中国3大空港」と称されるほど規模が大きく、トランジットでも多く利用されています〉

公共交通機関
日本と同じくらい電車の線があるから全然困らない。ただ、人が多いね。人口が多いから、通勤のラッシュアワーとかだと、ホームが全部人で埋まってるみたいな。日本は何か特別な時じゃないとホームは埋まらないじゃん?あれがラッシュアワーの時は常に起こっている感じ。

自分がいた頃はそうだったんだけど、今はお金を持ち始めて車を持ってる人が増えて、空いてる。電気自動車がかなり多くて、今の広州の空気はめっちゃ綺麗。本当にすっごい綺麗!びっくりした。日本の方が悪い。電気自動車が増えたから排気ガスがなくなって、空気が良くなったんだろうね。自分がいた頃は、裸眼で太陽が見えたもん。排気ガスで隠れてるから。

本場の中華料理
油をすごく使うから、最初の1週間はお腹を壊したりした。日本の中華の味とは全然違う。あとは香辛料をかなり使うね。

実は中国に焼き餃子はなくて、日本独自の文化。焼き餃子は元々、保存に適してるらしい。日本はそういう民族だったから、独自で反映していったみたい。中国は水餃子だけ。水餃子とも言わないで、ただの餃子。

自分が特に好きなのはやっぱり餃子かな。餃子が美味しい。中国人は皮から作るくらい、こだわる人が多い。自分のお母さんの餃子も独自のものだね。

物価
自分が広州にいた当時はだいぶ安かったね。日本の2分の1くらい。7元100円で、コーラ1本3、4元。だから80円とか60円。電車も安い。おじいちゃん、おばあちゃんは無料だからね。60歳以上とかだとバスも電車も公共の乗り物は全部無料!

断然キャッシュレス
キャッシュレスがだいぶ進んでる。現金を渡すと嫌がられるくらい。中国版LINE PayみたいなAlipayとWeChat Payがあって、それで払う人が9割だね。屋台ですらキャッシュレス。コロナでだいぶ加速したね。顔で認証して払えるシステムもある。

〈中国版Amazon、アリババが提供するAlipay(支付宝)。日本でも使用可能な店をたまに見かけます〉

広東語?北京語?
広東語と北京語は全然違う。何もかもが違う。広州は広東語。北京語も話せる人が多いけど…教養がない人は広東語しか話せない。日本語の関西弁と標準語より違うかも。津軽弁レベルまで行くかも。

発音すら違う。中国語の四声って分かる?テンション感があって、それが北京語だと4個しかないんだけど、広東語だと8個とかあるから、発音の仕方が全然違う。

広東は広東語で、違うエリアは違うエリアの方言がある。僕らが話している北京語が1番一般的。やっぱり国がでかいから、少し離れたら方言が全然違くて全く分からない。

簡体字?繁体字?
簡体字が一般的に北京語で使われる中国語で、繁体字が香港とかで使うかなり複雑な文字。日本でいう、普通の「学」か、複雑な「學」みたいな。あのイメージ。基本的には簡体字。

ぜひ覚えておきたい言葉
「买单(マイタ)」。お会計の時に使う「チェック」の意味。あと「お持ち帰りの袋をください」の「打包(ダーバオ)」。中国はお持ち帰りの文化があるから!

英語力
英語は全然通じない。広東は通じない。北京だと通じるかもね、いや分からないな…広州だと通じない。上海はビジネス街だから通じると思う。地方によって格差があるから、富裕層だったりがあまり多くないエリアだと話せない人が多い。

〈永遠に始皇帝を守る最強の地下軍団、兵馬俑。陝西省の西安にあり、世界遺産に登録されています。世界史の教科書で見たことがあるのでは?〉

情報統制
自分が高校にいる間にGoogleが撤退して使えなくなった。Google、LINE、YouTube、Facebook が使えない。ほぼダメ。日本に帰ってきてようやくYouTubeを知ったって感じ。

金盾っていう中国独自のウォールがあって、それのせいで入れない。だから僕らがいたインターナショナルスクールの学生はみんなVPNに課金して、YouTubeを見てた。自分はお金がないから課金しなかったけど。

全部、中国の独自の動画サイトとかがある。情報統制だね。今もそれが続いているね。

反日感情
昔、尖閣諸島の問題があった時は、自分がまだ高校にいて、デモが起きてた。車が燃やされたりしていたし、学校も休みだった。そういう時は反日感情がやばかったね。今はどうなんだろうね。

以前は日本企業が結構多かったけど、コロナが流行って撤退しちゃったし、今は広州にある日本企業が少ないから…反日感情は昔よりはあるかもしれない。当時、日常生活ではそんなに感じなかったね。出張で来る日本人のビジネスマンが多かったしね。

今はあんまり大っぴらに日本語を話さない方がいいかも。結構やばい人が絡んでくる可能性がある。基本的に大丈夫な人が多いけど、そういう人に絡まれると大変だから。ちょっと店の中で話す程度だったら良いけど、ガンガンガンガン話すのは良くないかもしれない。

向こうの人は、日本語を話さないと日本人だと分からない。むしろ英語を話した方が良いかもね。韓国に対しては何もないから。英語で話すことをおススメするよ。

パンダ
人気ではあるよ。ただ、あんまり見ないかもしれない。僕の地域がその機会がないだけかもしれないけど、あんまり見たことがない。キャラクターでも羊しか知らない。羊のアニメがあるよ。

〈2024年11月に福建省の廈門で、北中米W杯予選の中国vs日本が行われた際は、大いに盛り上がりました。サッカー熱の高まりが感じられます〉

スポーツ
サッカーは大人気。レベルは伴ってないけど(笑)。国技の卓球は好きな人は好きって感じのイメージ。

朝におじいちゃん、おばあちゃんが太極拳をやってる。あとダンスとか。知らない人たちがどんどん自然に集まってくるから良いなと思った。リフレッシュみたいな感じ。朝の健康的な生活みたいな。1人が独自に編み出して、それに対して良いなって思う人たちが段々集まってきて、団体になる。

日本のアニメ
若い年代は日本のアニメが好きな人が多いかな。ただ、最近になって中国のアニメが結構出てきてるから、それにシフトしつつあるかな。でも知名度は高い。1番知名度が高い作品はドラゴンボールやスラムダンクとか、昔の作品がやっぱり多いかな。最近のアニメはあんまりかもしれない。

〈中国版コミケのようなイベントも盛況です〉

ふと聞こえてくる日本語カバー曲
ORANGE RANGEの『以心電信』とかもあった。あれは多分、日本の企業が許していると思う。「大丈夫なのかな?」と思って調べたことがある。『以心電信』は本人に許可を取って、カバーしているらしい。

パクリも多いね(笑)。昔ほどじゃないよ。昔は多かった。今、中国はその段階じゃないと思う。日本も昔パクってたしね。パクリはその成長の過程みたいなイメージだと思う。

1番有名な日本人
渡辺謙じゃない?そんな気がする。ハリウッド映画にも出てるし。妻夫木聡とかもそうかも。妻夫木は中国の映画にたまに出てくるんだよ。中国語は微妙だった(笑)。

今後への期待
コロナが収束したから、もうちょっと日本の企業にまた入ってきてほしい。そうすると、みんな広州とかに遊びに来やすくなるだろうし。短期ビザ免除が再開されたのは大きいね。一時期ビザがかなり厳しかったね。自分もおばあちゃんの葬式とか理由がないと行けなかったから、かなり緩くなったね。

地球の過ごし方【ケソン】

2023年09月25日

〈フィリピンの最高学府、フィリピン大学デリマン校〉

コレが魅力!
ケソンはマニラから遷都した美しい計画都市。ここのUP(国立フィリピン大学)は広大なキャンパスを持つ、フィリピン随一の名門大学。キリスト教国のため、キャンパスには新教、旧教両方のチャペルがある。キリスト教つながりで昔から青学も結構な交流があった。近くにはビレッジが点在している。フィリピンでビレッジというのは塀に囲まれた、そして銃を構えた守衛に守られた高級住宅地のことを言う。

住民の多くは欧米の方々や華僑華人の金持ちが多い。ビレッジ子弟の多くはUPに通うので、友人になれば気安く自宅に招いてくれ、満点の夜空のもと、クリスマスキャロルを歌いながら家々を練り歩くのは学生時代のいい思い出になろう。

コリャたまげた!
ケソンに住んでいると清潔で美しい街というのが印象に残る。国際色も豊かで、仲良くなるとみなさん自宅の食事に招待してくれる。ビレッジ内ではどのお家もメイドさんが居て、こまめに食事などの世話をしてくれるが、食事前に必ず祈りをする習慣がある。おやつの時間でもお祈りをしないと無作法者と思われるので注意。お祈りを指名されたら堂々と自分の言葉でお食事の感謝を言えばいい。例えクリスチャンでなくても、感謝の言葉は誰でも言えるだろうから。

コレだけは覚えて!
「バースデー、birthday」
この言葉を聞いたら、ビビっと反応できるように日頃鍛えておくことだ。マニラなどの観光地では例えば、観光中に話しかけられ、仲良くなると、「今日は私のバースデーだから、私の家でアイスクリームでも食べない?」などと誘われる。これで本来はビビッと電流が走って、逃げるのが正解。つい仲良くなったのだからとついて行くと、いわゆる昏睡強盗にあって、翌日に身ぐるみが剥がされて大通りで目を覚ますことになる。

私も愛想のいい三人組の女性に誘われて家まで行ったのだが、途中迷路のような道をぐるぐると回り、絶対に覚えられないようにして、やっと家に到着。これはおかしいと思い、バイクタクシーから降りずに「どこでもいいから大通りに出てくれ」と言ってお金を握らせたら、案の定大通りはすぐ出たところにあった。Birthdayの女性は仲間達と私を追いかけて来たが、バレたらしょうがないわねという表情で手を広げて諦めて退散。

Reported by Junichi

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