地球社会共生学部同窓会

GSC ALUMNI EVERYTHING SPECIAL

colour2 岡田純一

2025年07月01日

一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。

Colour2 文学部卒

あまりに遠くて、あまりに――後世に語り継がなくてもいいかもしれない厚木キャンパス伝説

皆さんは厚木キャンパスをご存知でしょうか。決して伝説のポケモンなどではありません。それは確かに存在していたのです。山の上に。その生き証人の1人が岡田純一さんです。渋谷で5時、ではなく1時に待ち合わせをし、実態をヒアリングしてきました。

〈1982年から2003年まで存在した自然と共存型の厚木キャンパス。各学部の1・2年生が通っていました〉

――本日は厚木キャンパスの実態解明のため、お越しくださりありがとうございます。まずは自己紹介をお願いします。

東京の新宿出身です。幼稚園から青山学院に入り、大学の学部は文学部教育学科です。そのまま大学院にも進み、ドクターコースまで行って、学生としては4歳から30歳くらいまで青山学院でお世話になりました。

――名前が元V6の岡田准一さんと一緒ですよね。よく言われますか?

向こうもいい年になったし、知らない子が増えてきたかな。まあでも、よく自己紹介の時に「病院や銀行に行くのが嫌です」って話すんだけど…あっちは芸名だし、漢字も若干違うしね。

――岡田さんがすごいのは、幼稚園から長く青学に携わっていることですよね。ここまで縁が切れないのは、中々珍しいですよね。

高等部の代表幹事だったんです。1学年500人弱の学生がいるんだけど、代表が2人置かれるようになっていて、それを友人に懇願されて24歳から10年間務めました。当初は院生で、学生をやりながら始めて、スタート時に「10年しかやらない」と宣言して、その通りに34歳になって辞める時に、これでもう青学と縁が切れるのかなと思ったら、そのまま今度は大学の教壇に立つことになり、その後大学の同窓会や、校友会の委員・役員などを務め、青学との縁が切れないまま、ここまでずっとって感じになっています。現在は校友会大学部会の副部会長を任されており、主に広報を担当しています。これにより、青山キャンパスにはよく足を運んでいます。ここ2年、学位授与式や入学式においてフォトスポットを設置しているので、機会がありましたら是非訪れてみてください。

教育学を専攻してきて、社会教育や生涯学習が専門分野ですが、教員免許は幼小中高で全部持っているので、教職関係なども教えることがあります。けれども専門分野に関連して学芸員や司書、社会教育士の専門課程の科目を持たせてもらうことが多く、その関係で今日のテーマの厚木キャンパスにもキャンパスがラスト1年の時に教えに行きました。学生として通っていたのは1985年度と86年度です。厚木キャンパスができたのは1982年だから、できたばかりで綺麗だったのかもしれないけど、別にそれが嬉しかったわけではなかったです。

〈2025年現在の本厚木駅周辺の様子〉

――以前、高校時代に「厚木キャンパスツアー」に無理やり参加させられたと話していましたね。

私達が全然危機感がないってことで、高校3年になった時に、高等部の先生に「お前達、来年から厚木に通うんだよ」って言われて。でも自分達は「きっと誰かがどうにかしてくれるだろう。行かなくて済むだろう」と思っていました。

厚木なんて、人から言われてるだけで、そんなに意識はしてなかったなかで、高3の6月30日に高等部からバスで本厚木駅まで連れて行かれました。相当時間がかかった感じがしました。その日は土曜で、クラブ活動を休んで本厚木駅に行ったら、「まだここは学校じゃない」と言われて。「どこにそんな学校が…本当にあるの?」なんて言ってました。みんな相当青ざめていて「本当にここまで来ないとならないの!?」っていう、そんな状態でしたね。駅の切符売り場に掲示されている路線図を眺めている友人もいましたが、私はそれすらできず、呆然としていました。

――そのツアーで厚木キャンパスを初めて見た時の第一印象は覚えていますか?

もうね、駅に行ったことぐらいしか覚えてなくて。あの時、学校のキャンパスまで行ったかどうかも…みんなショックすぎて。「ここの駅はなんだ!?」って。「新宿から急行で1時間?はっ?」みたいなね。それで「ここからまだ歩いていけない」っていう。それまで初等部から高等部までも、新宿の実家から渋谷に通うには遠いと思っていたんだから。

〈正門から事務管理棟へのメインストリートは、青山キャンパスと共通のイメージを持たせるため銀杏並木になっていました〉

――ここから厚木キャンパスを深く深く掘り下げていきたいと思います。悪いところがたくさん出てきそうですが、まずは良いところを教えてください。

いや、良いところを考える思考がないんです(笑)。嫌で嫌でたまらなかったから。良いところは本当に考えられないよね。何が良かったんだろう…本当嫌いだったもんね。

――何が1番嫌でしたか?

まず遠い。遠いと結局、朝、今まで経験したことのない時間に起きなくちゃいけない。高校生より早起きしなくちゃいけない。何時だったかな…当時1限の開始が9時20分だったから、6時台には家を出ていたと思う。

実家は最寄駅までバスで行かないといけなかったので、新宿までバスに乗って、そこから小田急線で本厚木に行っていました。

本厚木からは神奈中バスで、スクールバスじゃなくて、市民の人も乗ってくるから、ぐるぐる回るんだよね。多分1時間弱くらいかかっていました。直で行ってくれると、15分とかで着いたんじゃないかな?

――本厚木駅からのバスの料金はいくらでしたか?

当時片道310円で、回数券で乗っていました。週5日で通学しても定期券より回数券の方が安いので、しょっちゅう回数券を買う羽目になっている感じでした。

〈厚木キャンパスを語る上で、神奈中バスの話題は欠かせません〉

――バス以外に、例えば駅から自転車で通っている生徒もいましたか?

自転車は無理です。山の上だから。当時、駅に自転車が置いてあって「これ誰でも乗れます」みたいなシステムは全くなかったし、あったところで体力的に厳しいです。

――当時、電動自転車なんてないですもんね。原付や車で通っている人はいましたか?

車はいたと思う。車通学OKだったと思います。

――生徒も厚木キャンパスの駐車場に駐められたんですか?

うん。原っぱじゃないけど、キャンパスに隣接した空地に駐めていました。

〈体育館は全天候型。大きなガラス面は周囲の自然を映し出し、緑豊かな景観の中で若いエネルギーを発散することができました〉

――身近に、車で通学している友人はいましたか?

いたけど、渋滞にはまっちゃったりしたら、授業に遅れて行くことになるので、乗せてもらったことはほとんど記憶にないです。1回だけ…教職を取っている関係もあって、土曜日の授業が毎年あったので、土曜に自宅から車を出しました。その後にアドグル(アドバイザー・グループ)で山へ行く予定もあったので。その時にもうめちゃ渋滞して、本当に酷くて。当時カーナビがないから、田舎道で道に迷い、すっごい遅れて、授業が終わりも終わりのところで4時間ほどかかってようやく辿り着きました。

――先生達は車だったんですか?

先生方はスクールバスに乗れたんです。だから、厚木キャンパス最後の1年で私が教えていた時だけは、それに乗らせてもらえました。

――そもそも厚木キャンパスに通っていたのは、何年生の時ですか?

1、2年生の時です。

――3年生になって青山キャンパスに移ってからは、厚木キャンパスに行く機会はありましたか?

全くないです。2度と行くことのないように、ちゃんと厚木のものは全部取りこぼしのないようにやっていました。もう2年生の頭の時に「この時にこれを取る」って卒業までの履修の仕方を全て決めていたので。4年間で210ぐらいの単位を取りました。

〈学生と教職員の研修施設の場だった厚木セミナーハウス。キャンパスから徒歩3分の近さでした。様々なゼミ合宿が行われ、授業だけではなく学生と先生の交流の場としても利用されました〉

――卒業してからはどうでしたか?

院生の時は、ゼミとかのサポートをするので、行く機会がありました。キャンパスの片隅にセミナーハウスという宿泊施設があったので、「行きたくない…」って思いながらゼミ合宿などについて行かされたりしました。「厚木」って聞いただけで拒否反応が出る感じだったので。

それの手伝いの他に、叔父・叔母があの辺に住んでいたので行ったこともあるし、日産の研究所になってからキャンパスの前を通ったこともあります。

〈厚木キャンパスの跡地には、日産先進技術開発センターが建っています〉

――単純な疑問なんですけど、みんな青山キャンパスや相模原キャンパスを「青キャン」「さがキャン」と呼びますが、厚木キャンパスの愛称はやはり「厚キャン」でした?

「厚キャン」とは呼んでなかったです。「厚木」って言っていました。愛称を付けたいとも思わなかったです。

――キャンパスの広さはどうでしたか?

すごい縦長っていうか、横長っていうか。変な形でした。だから移動が大変で、本当によく体育の先生には「遅い!」って怒られていました。体育とかは正門の入口や、正門を出て横断歩道を渡った道の反対にあった施設を使っていたと思うけど、英語とか語学系は正門から真逆の場所。当時の建物はエレベーターとか何もなかったから、全部階段で行かなくちゃいけなくて大変でした。

〈日産先進技術開発センターと道路を挟んだ先にある日産厚木総合グラウンド〉

英語の先生がいつもギリギリまで授業をやって、当時休み時間は5分だから、5分で移動は物理的にもう絶対無理なので。着替えもしなきゃいけないし。でも体育の先生は「なんでお前達はいつも遅いんだ!」って。別に遅くしてるつもりはないんだけど。絶対無理でした。

――他に厚木キャンパスならではの、あるあるはありますか?

水曜日と土曜日の授業がめちゃくちゃ少なかったので、自分は水曜日だけ行かないで済んでたんだけど…その水曜に、青キャンだと学食ではフルーツとして出るのがオレンジぐらいなところ、「メロンが出た!」って自慢していた子がいました。でも私は「学校に行かない方が絶対いい!」と思っていましたね。メロンは羨ましいかもしれないけど、「厚木で食べるメロンは別にどうでもいい」みたいな(笑)。

〈いつも学生で賑わっていた食堂。若い人向けのメニューが豊富で、手ごろな価格でした〉

――だからとにかく、厚木に遠征する日に授業を集中させて、いかに行かない日を作るかってことですよね。

ショックだったのが、「1年の時に頑張って土曜に出たら、2年で行かなくて大丈夫になる」って先輩から聞いていたのに、なぜか自分達の年から金曜にあった科目が土曜に行っちゃって。「1年生の時、楽しとけば良かった」って思いました。

〈今も存在するスーパーマーケット三和(SANWA)森の里店〉

――キャンバス近くのよく行っていた馴染みの店はありましたか?

周りに店はないです。スーパーが1軒あったかな。「三和」っていうスーパーが1軒あったけど、そこも山を下りて行く感じです。キャンパスのすぐ下には松蔭女子短期大学(現・松蔭大学)のキャンパスがありましたね。

――厚木キャンパスの中には、学食の他にコンビニみたいな店はあったんですか?

購買会があったね。まあ、空きコマを作ってもどこも行くところがないから、みんな割とびっちり授業を取ってました。

〈学内での福利厚生設備として、E館内での購買会では、勉学・スポーツに必要な書籍・衣類・日用品を市価より安く購入できるよう配慮されていました〉

――イメージなんですけど、山の中にあるので虫が多そうです。

それはあんま感じなかったかな。ただ空気は良くて、バスを降りた瞬間、「田舎に来た!」っていうような香りがしていました。でも、それも「良くない」って思っていましたね。新鮮な空気が漂うことにさえ、ムカついていました。

〈理工の学生が通っていた世田谷キャンパスの全景と周辺の様子〉

――他のキャンパスと比べて見えてくることもあるのかなと思います。以前は、祖師谷大蔵にもキャンパスがありましたね。

世田谷キャンパスね。世田谷キャンパスは1回だけ行きました。結局、理工の人達だけのキャンパスだから、自分達は全く関係ないので。そこは駅から歩けるんだけど、ちょっと遠くて、車通りが多い細い道も歩かなくちゃいけなかったみたいです。

――青山キャンパスと比べてどうですか。比較した時に「意外と厚木良いな」って見えてきたりしないですか。

しないです。全然もう距離感が違うし、私は幼稚園から青山だったから。

「1回でいいから青山キャンパスの授業を受けたい」って言って、私の教職科目を取りに来た理工学部の子もいましたね。私が「あれ、理系の子ってどうしてんだ?ここで取るんだっけ?」って言ったら「いや、わざわざ来てるんです」って。理系は1年生だけ厚木を経験して、それ以降は世田谷キャンパスだったんです。

――当時の気持ちになって、自分の好きな場所にキャンパスを作って、そこに通えるとしたらどこが良かったですか?厚木じゃなかったらどこでもいいって感じだと思うのですが…。

やっぱり、駅から歩けるところが良かったなと思うよね。何をするにもバスを使わないと帰れなかったですしね。

〈厚木祭は地域との触れ合いを大切にし、地元の人達が参加できる形で開催されました。キャンパスの中央を走るミニSLやフリーマーケットは、子供達や地域の人達から人気がありました〉

〈厚木市役所や近隣の大学、企業の方々も招いた「厚木キャンパスお別れ会」がウェスレーチャペルとE館で行われました〉

――厚木キャンパスは2003年に21年の歴史に幕を下ろすことになったわけですが、なぜ閉鎖したのでしょうか?

受験倍率が下がってきたり、人気もないし…私たちの声が届いたのでしょうか。でも、工場等制限法の廃止による影響が大きかったのでしょう。都心回帰はこれからも進むと予想されていますね。

経営的にも倍率が下がると大変なことになるし、厚木を良く言う人がいるんだったらいいんだろうけど、住所も厚木市森の里青山1-1で、学校が無理やり付けた住所みたいになってるし。

森の里という地名があって、そこに大型の住宅地が作られたようです。そこに移住してきた人もたくさんいるんだけど…モノレール建設が言われていて、駅からモノレールが通るから便利に生活できるし、通えるって話だったらしいけど、結局その目途が全く立たなかったんです。

スクールバスがなかったことについての噂話では、「パイプオルガンを作ったからだ」とも言われていました。厚木キャンパスの礼拝堂にドイツからパイプオルガンを入れて、お金がかかったから。ちなみに今、相模原にあるパイプオルガンは厚木から持って行ったものなんです。

〈厚木キャンパスにあったウェスレーチャペル。使徒ヨハネ像の建つ円形の池を中央に、左右に教室棟が並んでいました〉

〈相模原キャンパスのチャペル内にあるパイプオルガン。厚木の名残を感じられます〉

――数々の貴重な証言をありがとうございました。その他に印象的なエピソードがあれば、最後に是非教えてください。

帰りのバスで暴動が起きそうになったことがありました。5限が終わると18時手前ぐらいで、行列でバスに乗ります→乗りました→酷い大渋滞です。結局、本厚木駅に着いたのは20時半とかでした。2時間半ほど、通常の3倍くらいかかったことがありました。だからバスの中でみんな腹が減るわけです。ずっと授業してきて疲れてるし。でもバスの中では何も食べられません。バスは全然進まなくて、もう限界です。「なんだこれは…」みたいな感じでした(笑)。やっぱり色んなことがありましたね。

1番切なかった思い出は、2年生の時のある月曜日です。3コマの講義が予定されていましたが、遥々キャンパスに辿り着き、正門近くにある休講ボードを見て唖然となりました。なんと3コマとも休講だったんです。私達が学生の頃は、先生方が休講にすることはよくあって、補講などの必要もなかったため、数回しか講義がなく終わってしまうこともありました。

休講かどうかは、キャンパスに掲示される休講ボードを確認しなければ分かりません。携帯電話はなく、自分で確認する必要があり、このような悲惨な出来事が生じてしまうのです。本厚木から乗ってきた同じバスに乗り、再び本厚木へ向かった時は、「今日は交通費だけ払ってなんて日だ!」と、どこにもぶつけられない感情になり、とても切なくなりました。

〈厚木キャンパスはなくなりましたが、その記憶は永遠に残っています〉

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