サンフランシスコ支部発足30周年記念インタビュー #1 岡野ペダーソン啓子さん
2024年10月07日
青山学院校友会サンフランシスコ支部発足30周年記念インタビュー
第一回:岡野ペダーソン啓子さん
1. お名前と簡単な経歴 : お名前と青山学院で在籍した部と簡単な経歴を教えてください。
私の名前は岡野ペダーソン啓子(Keiko Pederson)です。旧姓は岡野啓子です。
小学校は地元の公立に行きましたが、中学から青山学院の中等部に入り、高等部まで青山学院に在籍しました。記憶があやふやですが、1952 年ごろに高等部を卒業し、その後、3歳から習っていたピアノをもっと勉強したくて国立音楽大学の教育音楽科に進学し、そこでピアノと声楽を勉強しました。
私は1934年にインドネシアのスラバヤで生まれて、一歳半の時に日本に戻り、東京の白金台と高輪台で育ちました。22歳か23歳の時にアメリカで働くための“コントラクトビザ”と500ドルだけを持って渡米して以来、ずっとサンフランシスコ・ベイエリアに住んでいます。ピアノバーやクラブでピアノを弾いたり、ピアノを教えたりすることを生業にしてきました。ピアノを教えることは23年間続けました。
渡米後数年してアメリカ人と結婚して、子どもを二人もうけました。ふたりとも今では成人してそれぞれ家庭を持って独立し、長女はサンフランシスコに、長男はハワイに住んでいます。孫は三人で、女の子が二人、男の子が一人です。
60歳を過ぎてから、「自分が本当にやりたいことをやろう!」と一念発起して、すっかりご無沙汰していた声楽の個人レッスンを受け始めました。その頃バークレーに住んでいらした、声楽指導ではちょっと名の知れたフラーデンカム先生から教えを受けました。その先生のお母さまはかの有名な作曲家のプッチーニのお弟子さんでしたので、私は勝手に自分をプッチーニの孫弟子と自負しています。先生のおかげで、単独でリサイタルができるまでになり、人間としてもとても自信が持てるようになりました。この先生には今でもたいへん感謝しています。
数年前に夫が亡くなったので家を処分し、今はアラメダのシニアセンターに住んでいます。
2. 渡米について – いつ、どのようなきっかけで渡米されましたか?
国立音楽大学を卒業したあと、会員制クラブ『エキゾクカ』でピアノを弾いていたところ、当時フジテレビで働いていた旧知のすぎやまこういちさんを通して、ダークダックスのマネージャーを紹介され、日本人のオーナーがサンフランシスコに大きなナイトクラブを作るのでそこでピアノを弾かないかと誘われました。最初は「英語ができないから無理です」と断っていましたが、“お兄さん”(すぎやまこういちさん)の勧めでテープと写真を先方に送ると、「すぐに来てください」という返事がきました。
当時(1950年代半ば)はまだ戦後10年くらいしか経っていなかったので、今のように簡単に渡航できる時代ではありませんでした。特に20代の女性が単身でアメリカに渡るのは非常に危険と考えられていたためとても稀なことで、最初は家族も皆反対でした。でも、知らないところを見てみたいという好奇心と軽音楽の本場で勉強してみたいという強い思いが勝った私は、このチャンスを逃すまいとスポンサーにコントラクトの作成や住むところの保証をしてもらって、家族の承諾を取り付けることができました。こうして私は周囲の心配をよそに、単身でアメリカに渡りました。
3. 校友会参加の経緯 – 青学校友会サンフランシスコ支部に参加された時期とそのきっかけや、どのように関わっていらっしゃったかを教えてください。
最初は、私の渡米のスポンサーになってくださった日本人の方がサンフランシスコで開店したナイトクラブ『銀座ウェスト』でピアノを弾いていました。そこには日本の商社の方たちがよく出入りされていて、その中のおひとりが青学出身で、「こちらに青学の同窓が集まる会があるので、是非あなたも入会されませんか」とお声をかけてくださいました。それが『青学校友会』に入るきっかけです。1950年代のことですから、当時はまだこの集まりは正式に『校友会』として発足していなかったのではないかと思います。『青山会』の前進だったかもしれません。
当時食事会に集まるメンバーはほとんどが年配の方で、会社の支店長さんなど中年以上のえらい方ばかりでしたが、同窓のよしみというだけで、私のような若輩者も暖かく会に迎え入れてくださったことは、本当にありがたいことでした。
余談ですが、『銀座ウェスト』との契約が切れた後は、サンフランシスコの『クラブ富士』というピアノバーや、オークランドのジャックロンドンにあった大きな日本食レストランなどでピアノを弾いていました。ある日、その日本食レストランに、当時サンフランシスコ・シンフォニーの音楽監督をされていた小澤征爾さんと奥さまの江戸京子さん(ピアニスト)がいらっしゃって、私の演奏を聴いてとても褒めてくださったことは今でも忘れられません。
4. 『青山会(校友会)』発足当初について – 『青山会』が発足した当時の様子をご存じでしたら教えてください。また、校友会の設立に尽力された方々との思い出もありましたら教えてください。
当時、中心になって『青山会』を盛り立てていらっしゃったのは、鯉沼みやこさん(みやこ・ホーキンスさん)と土屋和子さんだったと思います。鯉沼さんとは中等部と高等部で、土屋さんとは高等部でご一緒しましたが、私は子どもが生まれてからあまり青学の集まりに参加できなくなってしまったので、『青山会』が発足した当時の詳しい経緯についてはあいにく良く知りません。
5. 校友会活動について – 校友会で一番思い出深いイベントや活動、または特に印象に残っているエピソードがありましたら教えてください。
当時の『校友会』のイベントは、1月の新年会(夕食会)と夏に行われるピクニックで、年2回ありました。夕食会はヒルトンホテル内の日本食レストラン『Kiku of Tokyo』に集まることが多かったです。お名前を忘れてしまいましたが、当時青山会のメンバーのおひとりが『Kiku of Tokyo』の支配人をしていらしたからだと思います。
『校友会』イベントの中では、ペギー葉山さんが公演のためにベイエリアにいらした時に、『校友会』メンバーのみんなでサンフランシスコのチャイナタウンをご案内して、ペギーさんと一緒にお食事をしたのが一番印象に残っています。私が青学で親しくしていた同級生のお姉さんがペギーさんと同級生だった関係で、青学に通っていた時代からなんとなくペギーさんのお顔だけは存じ上げていましたが、親しくお話ししたのはこの時が初めてでした。
あとは、青学の野球チームがサンフランシスコにやってきた時に、日本街でお食事をしたことも印象に残っています。たしか当時、青学の野球部は、東都大学リーグ優勝だけでなく全国大会でも優勝するなどの大活躍をしていた頃で、サンフランシスコ訪問はそのご褒美だったと聞いています。
6. 校友会の変遷について – 校友会発足前後と現在を比べて、校友会の変化や成長について何か特に感じることはありますでしょうか? また、校友会の活動や運営において、特に変わった点や進化したと思われる点がありましたらお教えください。
いまは若い方がたくさんいらっしゃるのがとっても良いですね。私が会に加わった当初は、年配の方ばかりでかなり年齢に偏りがあり、若い人は私ひとりでした。今はその反対で、私は希少な高齢者メンバーのひとりになっています。現在はメンバーの年齢層がうまく散らばっていてバランスがあり良いと思います。
7. 未来へのメッセージ – これからの校友会に期待することはありますか?また、今後の校友会メンバーへのメッセージや校友会の未来に向けて何かアドバイスなどありましたら教えてください。
『校友会』のイベントで、メンバーのお子さんたちが毎年どんどん大きくなっていかれるのを見るのはとても嬉しいことです。また、『校友会』のイベントに参加すると、私のような老人でもいつも分け隔てなく暖かく仲間に迎え入れてくださり、同窓ということでみんながひとつになれるような感じがするのもとても嬉しいです。おおらかで偏見のないところが青山学院の良いところですよね。これからもみんなで自然に助け合っていけるような会であってほしいなと思います。
ただ、このごろの『校友会』の集まりでは、青山学院創立時のキリスト教の信念・精神があまり感じられないような気がするのが少し寂しいです。以前の『青山会』の集まりでは、牧師先生がいらしてお祈りをしてくださったり、時にはみんなで讃美歌を歌ったりお祈りをしたりすることもありました。青学に入られた方々は、宗教の自由の中で、ある意味「キリスト教の精神」を選んで入学されてきたわけですので、『校友会』のイベントでも、その精神 – 人を助ける精神 – が流れていることが少しでも感じられるようなものがあると良いなあと思います。いつまでも青山学院の精神の根っこを忘れないでほしいです。
後記
はえある第一回青学校友会サンフランシスコ支部発足30周年記念インタビュー記事には、おそらくSF支部で最高齢の岡野ペダーソン啓子さんにご登場いただきました。啓子さんはインターネットもEメールもなさらないとのことでしたので、以下の記事は、私が、2日間(計4時間)にわたって啓子さんに直接お会いしてインタビューしたものを記事にまとめたものです。
記念インタビュー記事の2回目以降は、メンバーの方ご自身で質問票に書き込んでいただいたものをインタビュー記事として掲載する予定です。次回以降もどうぞお楽しみに! 秦 晴子

インタビュー後に啓子さんと