青山学院校友会サンフランシスコ支部発足30周年記念インタビュー
第二回:Noriko Yashima Balint さん
1. お名前と簡単な経歴 : お名前と青山学院で在籍した部と簡単な経歴を教えてください。
現在のフルネームは、Noriko Yashima Balint です。結婚後は Noriko Balint だったのですが、米国籍を取得した時に Yashima をミドルネームに入れました。旧姓は八島紀子です。結婚した当時は夫の姓に変えるのが当然と信じていたのですね。ミドルネームに旧姓を加えるなんてことは考えもしませんでした。
1968年に青山学院大学第II学部英米文学科 を卒業しました。
東京で生まれました。生後6ヵ月に父が出征し、硫黄島で戦死したため。父の実家にもどりました。9歳の時に新潟県村上市の母の実家に引っ越し、母が地元では著名だった木彫家と再婚し、養父は全国的にも実力ある芸術家となるために東京に移り住むこととなりました。1964年に青山学院大学の第二部に入学し、昼間は有楽町にあるツーリストインフォメーションセンター外国人案内所に務めていました。また、青学ではヨーロッパ研究会に所属し、ここで知り合った仲間とは今でも交流があります。
2. 渡米について:いつ、どのようなきっかけで渡米されましたか?
ツーリストインフォメーションセンターにお客様として来たPeter Balint と知り合い、1968年3月青学卒業後、9月に結婚して、1969年に渡米しました。上記ヨーロッパ研究会にピーターも名誉会員として活動に参加することとなりました。米国籍でもハンガリー出身なので、一応ヨーロッパ人と見なして顧問にすることにしたのです。私の家族の反対を押し切って私達が結婚するのに協力してくれたのもヨーロッパ研究会(ヨロ研)の仲間です。

紀子さん & ピーターさん
3. 校友会参加の経緯: 青学校友会サンフランシスコ支部に参加された時期とそのきっかけや、どのように関わっていらっしゃったかを教えてください。
私は渡米したときはすでに娘を妊娠しており、知らない国での妊娠・子育てに奮闘中で校友会に参加する余裕など全くない状態でした。そんな中でジャパンタウンは日本食を買うばかりでなく、私の心のよりどころでもありました。「北米毎日」という新聞を知り、青山学院大学同窓会(まだ校友会とは言っていなかったはずです)の存在を知ったのもジャパンタウンでのことだったと思います。校友会に参加したいと思いながら、遂に参加したのは1987年ころで、銀行に務めていたこともあり、参加し始めてまもなく会計係になりました。
4. 設立当初について:青山会(校友会)発足当初について – 青山会(校友会)が発足した当時の様子をご存じでしたら教えてください。また、校友会の設立に尽力された方々との思い出もありましたら教えてください。
北米毎日の記者をされていた、松尾あきらさんと土屋さん、ホッチキスさんそれに成沢さんは青山会設立発起人のメンバーで、この方たちが集まると設立当時のエピソードなどを話していらして、私もその場にいたのに今となっては何も思い出せません。松尾さんは人気のコラムをお持ちでジャパンタウンの顔役でもありましたから、恐れ多くて私などが話かけられる雰囲気ではなかったのです。多分青山学院卒業生でサンフランシスコ・ベイエリアに移住していた方々が、キクオブトウキョウで集まって飲み会などをしていたところから始まったのではないかと想像します。
5. 校友会活動について – 校友会で一番思い出深いイベントや活動はなんですか?また、校友会の運営に関わる中で特に印象に残っているエピソードがありましたら教えてください。校友会活動の中で、やりがいを感じた瞬間などもありましたら教えてください。
青山会の会計係になったものの、もともと私は表舞台にたつのは苦手で裏方が好きです。表に立つのはいつもスタイリッシュで人望もある土屋さんでした。ホッチキスさんはおおらかな人柄で人気がありゴルフ好きで人脈もおありでした。この「3人娘」ならず「3人おばさん」でそれぞれの持ち味を生かして会を運営していました。
まだパソコン、インターネットや携帯なども普及しておらず、連絡はほとんど手作業です。郵便や電話、ファクスで連絡し、年会費$30くらいを有志から徴収して連絡費にあてていました。私が入会したときは、年に2,3回ヒルトンホテル内にあった「キクオブトウキョウ」で夕食会があり、集まるのは7~8人、または2~3人なんてこともあり、会員を増やすのが先決問題だったのです。私は必死で会員のリクルートに奔走し、青学の幼稚園を卒業した歯医者さんがいると聞くと、そこの患者になり、その方が会に来てくださったときは本当にうれしかった。またある会社の上役だという青学卒業生が東京から出張時に会に参加してくださり、渡哲也は親友で飲み友達だと豪語していたのを真に受けて、渡さんが会に出席して下さったら会員が増えるのではとその方を丸の内のオッフィスまで訪ねていったら、あっさり追い出されました。お酒の席で、「渡哲也なんてね。私が言えばすぐ来ますよ。」なんて言ったら、本当に私が来てしまったのでご本人も”あやー、”と思われたことでしょうね。ナイーブというか天然なんですね、私は。
キクオブトウキョウのオーナーの成沢さんは、日本の料亭「石亭」の息子さんとそのレストランを開業し、青学卒業生でもあり多分青山学院同窓会の発起人だと記憶しています。成沢さんにはレストランを閉店なさるまで大変お世話になりました。格安で豪華なお料理を出してくださり、その当時の会員は皆その恩恵を受けたものです。その他、成沢さんは優秀なシェフでピクニックでは腕を奮ってくださり、ピクニックの人気で会員はどんどん増えていきました。
あの当時ピクニックはマリンカウンティでのことが多く、マクネアズビーチ、パラダイスコーブなどを覚えています。マリンカウンティにお住まいのホッチキスさんがプール付きの素敵なご自宅を提供して下さっての昼食会も忘れられません。ピーコックカントリークラブのマネージャーである卒業生がいたころがあり、ホッチキスさんが会員だったこともあって、豪華なゴルフ・アウティングを企画したこともありました。この方はこの後、指宿の方のカントリークラブに栄転され、やはり青学卒業生という指宿のホテルオーナーとも提携して青学サンフランシスコ支部からのゴルフツアーなどという夢のようなお話も出たのですが、いつの間にか立ち消えになってしまいました。
青学野球部が来たとき、色々企画して楽しく過ごして頂いたこと、ペギー葉山さんがいらした時、サンフランシスコ支部の存在を喜んで頂いたこと、私にとってはやりがいを感じた瞬間ばかりでした。でも一番の思い出深い出来事は、”会には参加出来ないけれど、それらのイベントのご案内を受け取ることによって繋がりを感じられるのでいつも楽しみにしています。”との感謝状を受け取ったことです。もうすぐ100歳に届くという方でした。裏方冥利につきると思いませんか?
6. 校友会の変遷について:設立直後と現在を比べて、校友会の変化や成長について感じることはありますか? 校友会の活動や運営において、特に変わった点や進化したと思われる点がありましたら教えてください。
インターネット使用の運営方法については、私には何も言うことはありません。進化したと言えば、そうなのでしょうね。その時代に合った運営をしていけばいいのだと思いますが、その進化に取り残されて去って行った人を何人か知っています。年代にかかわりなく交流して行ける場というのが校友会の良さです。誰でも参加出来る環境が残されて行くことを願っています。
7. 個人的な経験について:校友会の活動を通して得た友人や人脈について教えてください。また、校友会活動を通して何か学んだことなどがありましたら教えてください。
2006年から2009年にかけて、ピーターの赴任でロンドンに住む機会を得ました。誰も知り合いがなかったので、ロンドンの青山会会長に連絡を取り、早速定例会に出席して、伊藤いづみさんに会いました。その当時の会長は依田さんという男性で今はパイプオルガン奏者として活躍していらっしゃいます。
いづみさんは依田さんの後にずっと会長をされている人で今でも親しくお付き合いをしています。いづみさんは明るく、社交的ですぐ色々な人と親しくなってしまうような人です。スポーツが好きで、大の相撲好きであり、私がズームの新年会でパンデミックで唯一ポジティブな出来事と申し上げた、スカイプによる相撲観戦を続けている相手というのも実はいづみさんです。昨年11月にはご一緒に福岡場所に行きました。いづみさんはロンドン青学校友会の顔で、何年か前には青山会ロンドン支部同窓会東京支部まで結成されました。私も東京で1回参加させて頂きました。活動に関してはフェイスブックグループで見ることが出来ます。青山学院大学の裏手にある校友会本部にも帰省される毎に訪問されるそうです。
これは余談ですが、私も1回だけこの本部に伺ったことがあります。校友会から資金が出るようになる前のことです。売店に寄って青山学院大学の旗とピクニックの時使うエプロンを買い求めました。当時の会員から集めた会費で賄いましたので、先輩たちからの贈り物と思ってください。
私がロンドンにいた当時、クリントイーストウッドの硫黄島の映画2本が上映されました。私の経歴のご質問に父の硫黄島での戦死について記述したのは、このエピソードをお話ししたかったからです。戦争とか硫黄島に対して屈託を抱いていた私は硫黄島の映画を見にいくことは出来ないと思っていました。その私の背中を押して下さったのがいづみさんです。お蔭で映画を見に行っただけではなく、政府が主催する硫黄島慰霊祭にこれまで3回参加し、私の中で何等かのクロージャーを迎えることが出来ました。
ロンドン支部の定例会はその頃は渡辺さんという方が経営していた「酔処」(よいしょ)という居酒屋で行われていました。渡辺さんは青学卒業生でラグビー部に所属されていたそうで、ラグビーのOBたちが良く飲みにきていたようです。ロンドンのキクオブトウキョウみたいなものでした。食事もとても美味しくて、そこに行くと日本にいるみたいでした。校友会のお蔭でロンドンでのお友達が出来、ロンドン生活を満喫出来ただけでなく、生まれてからずっと抱いてきた気持に整理をつけることが出来たのですから、このときほど校友会に属していることを感謝したことはありません。

ロンドンよりのご友人と
8. 未来へのメッセージ:これからの校友会に期待することはありますか?また、今後の校友会メンバーへのメッセージや校友会の未来に向けて何かアドバイスなどがありましたら教えてください。
重複になりますが、特にありません。これからはインターネットを駆使して会を運営されていくのだと思いますので、私のようなオールドタイマーがアドバイスすることはあると思えません。但し、青山学院校友会がもっとグローバルになったらいいのにという夢は私の中にずっとありました。他の国に移住した卒業生がどのように生活を送られているのか知れたらいいですね。最後に小さいことですが、校友会本部から送られてくる資金については使用法についてもっと皆の要望を聞いてほしいと思います。今は留学生への出費に偏っているように感じます。

紀子さん & 伊藤いづみさん