地球社会共生学部同窓会

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「地球の過ごし方」を教えてください!

ガイドブックには載っていない“すっぴん”情報を大募集中!現地在住だからこそ知る、ディープな側面を教えてください。文体は夏休みの宿題として書いた日記のようなラフな感じで大丈夫!レポートをお待ちしています!

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colour1-3 橘田正造

2025年04月24日

虹色々インタビュー

一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。

Colour1-3 地球社会共生学部・元教授

【#1「あの時、あの前、あの後――未知のウイルスとの遭遇から5年、船中の当事者に訊く」】

【#2「長野生まれ、西宮育ち、青学大出身。世界中を飛び回った国際開発金融マンが新学部の初代教授になるまで」】

学部名の由来は?地球の長所・短所も熱く厚く掘り下げる!必読エピソード大連発!

2015年に産声を上げた青山学院大学・地球社会共生学部は、2025年に10周年を迎えます。それを記念した特別プログラムの一環として、2015年から1期生が卒業する2019年まで教授を務めた橘田正造先生に、住居を構える藤沢でインタビューを実施しました。

横浜国大や筑波大での教授経験を持つ、橘田先生が思う地球ならではの魅力、ここからさらに伸ばしていくべき部分は?貴重な情報が満載!地球生なら必読のエピソード大連発です。

――◆――◆――

【新設学部のネーミング秘話】

――そもそも「地球社会共生学部」って、中々珍しい学部名ですよね。

英語の「SCHOOL OF GLOBAL STUDIES AND COLLABORATION」はすぐに決まったんです。開設準備委員会の第1回目ではないですが、早々に「これで行きましょう」って。問題は日本語です。もう既に青学には国際政経はあるし、早稲田にも国際教養がある。基本的にリベラルアーツだから、国際教養でもいいんだけど、既にあるわけです。それから総合政策は、慶應にも関西学院にもあって、あちこちにある。

そんな時に桑島先生が「『地球』はどうですか。まさにグローバルです」って。それで他の先生方も「あっ良いですね」と。それで誰かが「『共生』ってどうですか。この学部は、どうしたら共生できるかを学ぶところだから」と。「地球」「共生」「社会」が来て、あとは順番ですよ。地球社会共生か、地球共生社会か。最終的に地球共生社会は落ちて、さらに日本国内の大学に似た名称の学部はないか詳細に確認したりして、学部の日本語の方の名前はだいぶ遅れて決まりました。

――2015年4月に開校したわけですが、学部名は具体的にいつ決まったんのしょうか?

パンフレットを作らないといけないし、ホームページにも書かないといけないから…自己推薦や学校推薦も始まっちゃうし。だから2014年の夏休み前じゃない?

覚えているのが、「夏のオープンキャンパスで模擬授業をしてください」と言われて、青山キャンパスの新しい建物の大講堂で話をしたんです。その時にはもう日本語の名前も決まっていたから…6月くらいには決まっていたんじゃないかな。英語の学部名称は本当にすぐ決まったんですよ。

幸先が良かったのは、2015年1月、箱根駅伝の優勝です。あの時点で、青学が箱根で優勝するなんて誰も考えてないから。気配もない。みんなびっくりしたんだよ。しかも皆さん気が付いているか分からないけど、連覇したのは2019年の正月までなんです。1期生が入学して卒業するまで優勝し続けたのです。2020年は優勝していないんですよ。

【筑波大学にあって、地球にないもの「そういうところに差が出てくるのかな」】

――地球のどんなところが好きですか?

正直言うと…青キャンって色んな学部があって、以前は短大もあって、歩いている学生が男性も女性もやはり派手なんですよ。できる子ももちろんいますが、チャラく見えるわけです。でも淵野辺のキャンパスには、そういう学生はいない。本当はいたのかもしれないけど(笑)。理工学部、社会情報、それとうちでしょ(※2019年にコミュニティ人間科学部が新たに誕生)。1番勉強しないのは、地球かなと思っていたんだけど、そうでもないでしょ。だから本当に、見た目的にもチャラくなくて、非常に真面目に授業に取り組んでいる学生が多くて、それに驚きました。良い意味で予想外でした。

――逆に足りない部分は?

私は筑波大学の学部でも教えていたんですよ。同じようなテーマのレポートを課すと、筑波大学の学生達の方が本当に食らいついてくる感じがしました。「難しいだろうな。半分ぐらいしか、良い点を取れないんだろうな」と思う課題を出しても、まだインターネットのない時代だったなかで「どこで調べてきたんだろう」って感じで、ほぼクラス全員がちゃんと食らいついてきました。いっぱい考えてきたのは読めば分かるからね。

もちろん地球にも、ガッツがあって、食らいつく学生はいるんだけど、最後の方で諦めてしまう感じは結構ある。そういうところに差が出てくるのかな。

でも自分も、エラそうなことは言えない経験があるんですよ。青学を卒業する4年生の時に、自分は経済学部だったから法律関係の単位をいくつか取らないといけなかったんですよ。で、何単位か取ったんだけど…名前を書いたら「可」を貰えると噂の法律の授業があったんです。それじゃまずいだろうと思って勉強して、ペーパーテストを受けたんだけど、2問あって、1問はまあまあ書けたけど、もう1問は全然書けませんでした。それで怖くなっちゃって。

当時、大学院は大学を卒業してから3月の受験で一発勝負なんです。卒業していないと大学院に入れないから、「ひょっとしたら駄目かもしれない」ってドキドキで。先生の研究室に行って、「大学院を受験するのでなんとか卒業したいです」と懇願しました。

本人の経験もあるので、エラそうなことは言えないけど(笑)。まあ、それ以外は…ゼミでもみんな良くやってくれたしね。

〈1期生の卒業式後、青山キャンパスの近くで卒業記念パーティーが開かれました〉

【定年を2年オーバーして、1期生と一緒に卒業したワケ】

――地球を去ったタイミングは1期生の卒業と同じ2019年3月でしたね。

青学って68歳で定年なんですよ。だから本来は2017年3月で定年だったんです。なので、2016年の夏に平澤先生の部屋に行って「来年、定年の68歳になります。(自分が定年して枠が空く分)公募になるので、私と同じ専門分野で優秀な先生を何人か知っているので声を掛けていいですか?」って聞いたら、平澤先生が「何を言ってるんですか!」って。

実は文科省の規則で、新しい学部を作ったら、その学部の1期生が卒業するまでカリキュラムを変えちゃいけないので、先生を変えられないんです。だから「橘田先生には1期生が卒業する時に一緒に辞めていただきます」と。それで仙波先生も平澤先生も岡部先生も、みんな同じタイミングで辞めました。なので僕は定年を2年オーバーして、GSCで4年間勤めました。

〈2018年夏に行ったゼミ生達とのインド研修ツアー。古都ジャイプール近郊では現地インド企業、JICA事業、現地NGO等への訪問のほか、観光地巡りやラジャスタン料理を楽しみました〉

【東大や京大ではなく、青学の卒業生でなくてはならない】

――地球で最も印象に残っている思い出やエピソードは?

どの授業も愛着を持っているんですけど、その中でも私が平澤学部長の了承を得て企画した科目「世界の青学」が印象に残っています。最大の特徴は、毎週講師が変わるオムニバス形式の授業で、講師は全員青学大の卒業生なんです。グローバルに活躍している私の教え子や知り合いに声を掛けて喋ってもらいました。外務省の大使を務めた人だったり、世界中を飛び回って活躍している人を呼んで話をしてもらいました。

なぜあんなことやったかというと、「国際的、グローバルに活躍する人材に」と言われても、地球に入って間もない学生は、世の中にどんなグルーバルに活躍する仕事があるかも知らないし、4年間これからどういう勉強したらいいか分からないからです。「グローバルに活躍する」と言っても、何を勉強したらいいかも分からない――そういう学生に、「グローバルに仕事をする時の選択肢として、こういう仕事があるよ」と伝えたかったんです。

自分が高校を卒業して大学に入った頃は、「国際的な仕事したい」と思っても外交官か商社しか頭に浮かびませんでした。だから、「『グローバルな仕事』と言ったら、実はこんなに選択肢がありますよ」と伝えたかったんです。東大や京大を卒業していなくても、「青学卒でそんなに活躍できるのか」と思う子もいるんじゃないかと思って、「あなた達の先輩でこんなに世界で活躍している人がいるんだよ」と知ってもらいたくて、青学卒の人達に声を掛けました。

地球社会共生学部はできたばかりだから、学部の卒業生じゃないんだけど、「青学の後輩にそういう話ができるのであれば、喜んでやります」と言ってくれた教え子や知り合いの人達がたくさんいて、講師を喜んで引き受けてくれました。

初年度は、受講生は30人ぐらいでした。だけど2年目に70人になり、翌年に170人になりました。毎年のように受講生が増えて、今現在この授業で触発された人達がグローバルな仕事に就いています。

東大や京大を卒業してグローバルに活躍している人達が講師で話をしても「それはそうだろう」と思うけど、青学の先輩達が気軽に後輩に話す語り口であれば、「あんなお兄さんやお姉さんでもできるのか」「あんなおじさんでもできるのか」「じゃあ自分だってできるんじゃないか」とチャレンジしてくれるだろうと思って、あの授業を始めたんです。それを受け止めて、リアクションしてくれた学生達が私が知るだけでも既に何人もいることがとても嬉しいです。

【自分はこれからどう生きるか。大学で確立すべきは「生きる核」】

――地球は今年で10周年です。今後どうなってほしいですか?

リベラルアーツをもっと深めて勉強してほしいなと思います。近年は大原専門学校が大学を作ったり、サラリーマンの再教育と言っても、テクニカルなことを学ぶのが大事みたいに思われているけど、理系であろうが文系であろうが、「生きる核」になるものをきちっと持って社会人にならないと、結局後で苦労するんですよ。

自分の経験からしても、頭脳がスポンジのように吸収できる大学生の時に、経済学でも社会学でも美術でも歴史でも好きな分野を見つけて深く学んだり、自分はこれからどう生きるかをきちっと学んでから社会に出てほしいです。地味だけどものすごく重要だから。パソコンを使うのももちろん重要だし、それはそれで当たり前に学ぶんだけど、それと同時にリベラルアーツをもっと深く学んで、自分が目指す夢や自分が生きてゆく信念を見つけてほしいと思います。

他の人から何を言われても、自分の目的意識や信念がはっきりしていれば、びくともしないし、怖くもなんともない。チャレンジして失敗したら、自分の行きたい方向に向かって、何度でもチャレンジすればいいわけだ。そういう意味で、強い人間になるためにも、大学時代に地球社会共生学部でリベラルアーツをきちんと学び、そして将来活躍するための道具として英語も学ぶことが大切です。

留学して、他の国の社会を見てみて。例えばマレーシアのUTARに行ったら、UTARっていう中華系の大学が存在している意味や、マレーシアにおける人種問題とか、色々分かったでしょ?イスラム教の国の中に中国人社会があるっていう。ああいうのって、やっぱり行ってみないと分からない。実際に行くことで、なぜあの地域に中国人が多いのか、直接、間接学べるものがあります。それもリベラルアーツです。ただ現地に行って異文化や日本と違う歴史を知るだけに終わらず、それを通じて自分自身の生き方を見つめ直し、多様な価値観や生き方を理解すれば、人生はより豊かになるのです。

※橘田先生スペシャルインタビュー第3回終了(全3回)

colour1-1 橘田正造

2025年04月11日

虹色々インタビュー

一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。

Colour1-1 地球社会共生学部・元教授

【#2「長野生まれ、西宮育ち、青学大出身。世界中を飛び回った国際開発金融マンが新学部の初代教授になるまで」】

【#3「学部名の由来は?地球の長所・短所も熱く厚く掘り下げる!必読エピソード大連発!」】

あの時、あの前、あの後――未知のウイルスとの遭遇から5年、船中の当事者に訊く

2020年初頭。突如として、新型コロナウイルスが世界中をパニックに陥れました。日本でその存在が広く知られるようになったのは、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」での集団感染です。最終的に乗客乗員3711人のうち、712人が感染した船の中で、一体何が起こっていたのか。

世界が一変した未曽有の出来事から5年。偶然、船に乗り合わせた青山学院大学・地球社会共生学部の元教授、橘田正造先生に話を訊きました。

――◆――◆――

【ある日、世界が一変!それまでは「コロナのコの字もなかった」】

〈船に乗った1月20日に客室内で撮った写真。その16日後にまさか、あんなことになるなんて全く知らず…。私は意気揚々と「本日横浜を出港し英国船籍の大型客船にて16日間の船旅に出掛けて来ます」とFacebookに綴っていました〉

――まずは、ダイヤモンド・プリンセス号に乗船したきっかけを教えてください。

最大の理由は、2020年は結婚40周年だったからです。伏線は前年に別のクルーズ船で日本1周をしていたので、その良さを知った家内が「もう1回乗りたい。今度は海外版で」と言うので、ダイヤモンド・プリンセスの東南アジア周遊の旅に出ました。

船に乗ったのは、私の誕生日直前の1月20日です。横浜で乗って、横浜に帰ってきました。最初に止まったのが鹿児島。それ以降は香港→ベトナムのダナン→同国のハロン湾→台湾→沖縄→横浜の順番です。

〈横浜に帰ってくる遥か前の華やかな船内の雰囲気〉

――コロナの感染拡大が広がる以前、船内はどんな雰囲気でしたか?

最初の頃はもう和気あいあいです。1日中行動は自由なんですよ。部屋にいてもいいし、レストランに行ってもいいし。船が大きいから、あちこちにレストランやバーがあるんだね。だからどこで食べても飲んでもいい。夜は希望すれば、着席のディナーなんです。そのディナーのテーブルで、連日おしゃれなご家族と会話を楽しんでいました。

カジノ、映画上映、毎晩演目が変わる大劇場、プール、温泉もありました。それからDUTY FREE SHOPも。洋服や宝石など何から何までありました。

――乗船客の年齢層は?

リタイアした人達が多いですね。中高年のご夫婦。中には1人旅の人や、社会人のお孫さんがおじいちゃん・おばあちゃんと一緒にとかも。若者はほとんどいなかったです。

――外国人の割合は?

日本発で寄港先も東南アジアなので、日本人が7割くらいだったかと。あとは日本へ観光に来ていた香港の人や中国の人や台湾の人が、帰りに鹿児島に寄って、香港で降りていくとかね。欧米人もいたけど、そんなに数はいなかったです。

〈1月22日、高2の秋(1965年)に修学旅行で訪れて以来、何と55年ぶりに訪れた鹿児島で、71歳の誕生日を過ごしました。市内の西郷隆盛の生誕の地や、維新ふるさと館を訪れた後、JR九州の特急「たまて箱」で指宿の砂風呂を体験し、夕方に帰船しました〉

――楽しい船旅の最中、本当に突如として未知のウイルスが現れたわけですよね。

1月25日に香港で降りた人が、数日後にコロナに感染したと分かったらしいです。我々はベトナムに行っていて、知らないうちに、東京で大変な騒動になっていました。情報の拡散が遅れたのは、中国の河北省の省政府が黙っていたし、北京政府も隠蔽していたから。誰もそんな事実を知らなかったわけです。

河北省の病院のある先生はSNSで情報を出したんですが、その先生は逮捕された後、死んでしまったんです。「海外発信を禁じていた情報を勝手に出した」という理由で逮捕されて、もうその時彼は病院でコロナの患者を扱い、感染していたんですよね。結局、監獄の中で亡くなりました。でもそんな事実は当時、外部の我々は誰も知らなかったからね。コロナのコの字もなかったです。

〈横浜に帰港後の2月9日の朝に初めて新聞が配られました。自分が乗っている船の記事が1面に出ていて、変な気分でした〉

【外国人も日本人もみんな戦々恐々。薬が切れる心配も】

――コロナの情報を知ったのは、具体的にどのタイミングですか?

最後の行程で、沖縄で下りて観光して、船に戻ってきたら、船長からのアナウンスで知りました。2月5日です。僕ら夫婦はそれまで全く知りませんでした。

船長からのアナウンスで、「日本の厚生省からの指示により、これから横浜へ最速で戻ります。乗客はこれから14日間は各船室に留まって頂き、食事は部屋でとってもらいます」と。それまでは美味しいものを好きなだけ食べられたけど、突然、横浜へ帰港後はお菓子ケーキみたいなものになりました。それが毎食です。1日3回。要するに、横浜に戻ったタイミングから、もう外部から新たな供給を受けないので、船内の食料庫にストックがあるものを配給するしかないわけです。

〈隔離後に各船室に配膳された食事。毎回ほとんど同じです〉

〈船内隔離が始まって数日後から、3日に1度、1時間、各フロア順に乗客が上層階の広いデッキに出て、外気を吸ったり、ウォーキング等をすることが許されました〉

――乗船者の3割は外国人だったわけですが、受け止め方に日本人との違いはありました?

全然分からないです。横浜に帰港後は部屋から出られなくなっちゃったので。2月8日になって「次は何階の乗客」って、順番に1回1時間ずつ、週2回ぐらいデッキに出られるようになりました。デッキに出ると他の乗客と顔を合わせるんだけど、もう相手が感染しているかもしれないので、喋れることはできないわけです。

でも顔を見れば様子が分かるから、外へ出て初めて、みんな不安がっているのが分かりました。外国人も日本人もみんな戦々恐々としていました。互いに喋れないし、船の下を見れば、たくさんの数の救急車がずっと待っているし。

デッキに出る時には、全員にビニールの手袋とマスク着用が義務付けられて、用意されたものを自分で取っていました。人と触れることは完全に禁じられていました。

――着用の習慣がない国の人もいたと思います。全員がルールを守っていましたか?

それはだって、感染したくないから守っていましたよ。乗船者の中に既に感染している人がいるわけだから。誰が感染しているか分からないし。

〈支給されたマスクとビニールの手袋を着けて、デッキで体を動かしていたら、あっという間に制限時間の1時間が経ってしまいました〉

――部屋のシーツ交換などはどうしていたんですか?

シーツの交換の間隔は長くなり、自分でやるしかない状況です。シーツの場合、部屋の外に置いてもらったものを取って、古いシーツを外へ出しました。それまではスタッフがやってくれていたけど、ゴミなども自分で廊下に出しました。

――ご年配の方が多いなかで、薬が切れてしまう方もいたはずです。その対応は?

薬は、途中でアンケートが来て、何を飲んでいるかを書き込みました。それを国や県から乗り込んできた厚生省や自衛隊、薬剤師など様々な人が各船室に持って来てくれました。それから何日か後、ほとんど処方箋薬が切れかけていた時に、またドカッと持って来てくれました。

――間に合わなかった人もいるかもしれませんよね?

そうかもしれないね。特殊な薬だと。

――薬の提供は無償ですか?

無償です。処方箋薬が切れちゃうのは乗客のせいじゃないから(笑)。

〈感染ウイルスが何かが正確に判明せず、船内はカミュの名著「ペスト」を彷彿とさせる空気感が漂っていました。私は部屋のテレビでアメリカ大統領の一般教書の演説を見たり、元々持ち込んでいた何冊かの本を読んで過ごしていました〉

【ツラい軟禁生活に追い打ちをかけた崎陽軒弁当の廃棄】

――船内に留まっている間は、どのように過ごしていたのでしょうか?

読書をしていました。僕は旅行にはいつも何冊か本を持っていくので、暇な時は読んでいました。それが1番良いですよ。違う世界のことを考えられるでしょ。その他には、テレビを見るとか。各船室内のテレビはチャンネルと繋がっているわけじゃなくて、船内のテレビだから、NHKと、外国人のためのBBCやCNNのニュースが流れるだけです。

〈NHKのニュースで、元職場の後輩でNHKに転職したM氏が私達のクルーズ船について解説していました。なんと奇遇!〉

――そのニュースを見て、知る情報は多いですよね。「外はこんな風になっているんだ」と。

そうそうそう。「東京中、大変なことになってるな」「神奈川県ではもう受け入れ病院が限られている」とかね。実際にこの船から、次々と救急車で運ばれていくわけだ。隣の部屋の人が運ばれていったからね。2人のうち1人がまず搬送されたんですよ。なにか廊下で「わーっ」て言っているんだけど、もう会話にならないというか。

それで残された1人が、「自分の部屋のテレビがつかない」とか言って、僕の船室に来て「手伝ってくれ」って。情報源がないのは大変だから手伝いました。「こことここを押せばばいいんですよ」って。うちの奥さんは「うつるから行っちゃ駄目だよ!」って言ったんだけど。その部屋の1人が運ばれたわけだからね。

――外国の方ですか?日本人ですか?

日本語が通じたから、日本人じゃないかと思うんだけど、分からない(笑)。

〈2月11日、奥さんと2人で協力して、今月4日の軟禁開始から初めて各船室に配給されたシーツや枕カバーを古いものと交換。結構な運動量で汗をかきました。次いで日本人の船室に日の丸の旗が配られたので、船室ドアのレター受けに飾って建国記念日を祝いました。

その直後のランチでは、乗船以来初めてカップラーメンが配られました。同時に配られたメインのランチには目もくれず、ミネラルウォーターを沸かして、味わって食べました。やはり日本人は、たまにはこれを食べないとツラいです(笑)〉

――ニュースになった崎陽軒弁当の廃棄の件もお聞きしたいです。どういった経緯だったのでしょうか?

とにかくずっと、朝から晩まで毎日お菓子ケーキみたいな軽食だから、うちの奥さんも「コンビニのおにぎりやカップヌードルでいいから食べたい」って言ってたんです。その時に、おそらく横浜の人だと思うんだけど「崎陽軒のシュウマイ弁当。あれを食べたい」とSNSで発信した人がきっと何人かいたんだよね。それで崎陽軒が無料で4000食を届けてくれると。それをテレビニュースでやってたんですよ。「うわぁ!」だよ。うちの奥さんが大好きだから喜んでたんですよ。

「いつ来るかな?」「まだ来ない、まだ来ない」って言ってたら、テレビのニュースで「食品チェックをしていないので、クルーズ船の規定で受け入れられない」と。かつ、「もう何時間も経っているので廃棄します」と。「ちょっと待ってよ…賞味期限が過ぎててもいいからさ」って感じです。結局、船を下りるまで軽食が続きました。まあ、食べられるだけ、ありがたいんですけどね。いまだに崎陽軒のシューマイ弁当を見ると、あの時の悔しい思い出が蘇ります(笑)。

――奥様は橘田先生の横で何をなさっていたのですか?

結局、寝るのが好きな人だから、寝るとか。あとね、良かったのが、テレビでラジオ体操をやるんです。朝8時辺り、お昼や夕方にも。それで体を動かしていました。

――部屋はいくつかランクがありますよね。値段はどれくらい違うのでしょうか?

基本的にランクは3つ。1番良いのはテラス付き。2番目は窓付き。でも窓が開かないんです。これが僕らの部屋です。3つ目は窓のない部屋。自分たちの部屋は、飲み代から何まで全部込みで当時1人29万円ぐらい。テラス付きがプラス10万円だから、39万円ぐらいかな。窓がないのが19万円ぐらい。

その3つしかないんだろうと思っていたんだけど、乗ってみたら、トップクラスがあったんです。もうミリオネア。「スイート」って名前を使わずに、何か違う呼び名をしていましたね。「なんじゃこりゃ!」と思いました。最上階に彼ら専用のプールがあって、彼ら専用のダイニングがありました。

――それは一般販売もしていない特別な部屋なんでしょうか?

そうなんですよね。特別に会社の者とコンタクトを取るんじゃないですか?桁が違うから。

――ミリオネアの部屋はともかく…テラス付きの部屋は隔離中も自由にテラスに出られるので、かなり大きなメリットがありましたよね。

大きいね。いくらテラスが狭くても大きいね。僕らはまだ窓があったんでね。開かないけど。外が見られただけでも良かったです。

【船上のメリーバレンタイン。船員への感謝】

〈2月14日、朝の船長による船内放送でバレンタインデーだと気が付きました。同日は終日外出する順番が巡って来ませんでしたが、夫婦揃って熱も咳もなく今日を過ごせていることに感謝していると、夕方に写真の様なプレゼントが各船室に届きました。そしてそして遂に、突然船室のドアがノックされ自衛隊の医務官が目の前に現れました。5日の横浜帰港以来、漸く私達の問診と検体採取の順番が巡って来たのです。無事に終了後、その医務官に心から「ご苦労様です。ありがとうございました」と労いました〉

――船員の方の対応はどうでしたか?

全然不満はないです。全くない。船のスタッフ達も被害者だからね。よくやってくれたと思うよ。

――政府に対しては、どうですか?

政府に対しても同じです。だってあの当時は、何の病気かも分からないしね。原因が何なのかも分からず、「どうも中国から来たらしい」ぐらいしか分からなかったから。

――下船後にはテレビのインタビューを受けていましたね。その際の「皆さんの協力のおかげです」という発言からも感謝の想いが伺えます。改めて、下りた瞬間はどんな気持ちでしたか?

「生きて下りられたな。でも本当に私達、感染してないのかな?」って。分からないからね。検査を受けて「陰性です」って言われて、証明書を貰って、家内も「OK」って言われて、「ああ下りられる」と思ってんだけど、実際は精密検査したわけじゃないから。あれでいいのかどうか分からないから。

――下りてから家に帰るまでは、どういった流れだったんですか?

「第何号室から第何号室までの乗客で、陰性の証明書を貰った人は、何時何分に何階のデッキに来てください」と。そこが出口なの。みんなパスポートを持って船に乗っていますからね、パスポートを見せて本人確認をして、陰性証明書を見せて、下船していくわけです。

それでタラップを下りていくと、外に救急車がダーッと並んでいました。その横を歩いて、いわゆる税関に向かいました。その税関に行く時に、下船できない乗客が船から「さよならー元気でねー」って。こっちは「お先に失礼します」って。それでパスポートチェックやら、荷物チェックをして出ると、市営のバスがもう何10台と待っていました。乗り込むと、運転手さんとスタッフは防護服。我々が乗るところと彼らとの間には、ビニールでバーッてカバーされていました。

そのバスで横浜駅に着いたら、ものすごい数のマスコミのクルーがいました。そこで他の人達からは逃げられたのですが、最後に追いかけて来たNHKからインタビューを受けたんです。

【横浜で下船後も藤沢で続く軟禁生活「刑務所から出てきた犯人みたいな感覚」】

――横浜駅で解散になって、そこで初めて自由の身になったんですね。

だけど、こっちは荷物を持って、いかにも…みんなそう思っているわけじゃないんだけど、乗っていた人間からすれば、「あっこれ、ダイヤモンド・プリンセスに乗ってた人?」と思われるって(笑)。

家に着いてすぐに、藤沢の保健所から電話がかかってきました。「これから毎日1回確認をする必要があるので、何時頃だったらお家に電話していいか教えてください」と言われて、「午前11時ぐらいであれば大丈夫です」と伝えました。「できるだけ外出はしないでください」「とにかく2週間は家を離れないでください」とも言われました。とはいえ、1か月間も留守だったので食べ物がないから。なので、近くのスーパーに3日に1回ぐらいそっと買い物に行きました。

――船を下りても、また隔離ですね。

そうです。かつ、私の中高大、元勤務先の人達が電話してきて「お前乗ってたのか!」って。「何で知ってるの?」って聞いたら、「お前テレビ出てたよ!」って。マンションの人達も当然何人かは知っているだろうと。そうすると、やっぱり出られないわけです。もちろん、「極力出ないで」と言われていますし。要するに、刑務所から出てきた犯人みたいな感覚です。「あいつが道路歩いてる」って。船の中で2週間監禁、デッキしか出られない生活で、帰ってきてから2週間も基本的に身を隠すっていうかね。家内と私で、交代で近くのスーパーに買い物に行くぐらいですね。

〈2月19日11時30分頃に横浜港にて下船して、30日ぶりに同港に上陸。第1陣でバスにてJR横浜駅へ行き、13時頃に藤沢駅の南口の我が家に戻って来ました。少し遅めのランチは、船内で食べ損ねたあの崎陽軒のシュウマイ弁当を駅の売店で買って美味しくいただきました(笑)〉

【隔離の真ん中をちょっと過ぎたぐらいに「嘘のような船内アナウンス」】

――ダイヤモンド・プリンセス号乗船に関わるお金は、全額返金されたとか。

下船前に割と早めに…船内隔離の真ん中をちょっと過ぎたぐらいに、船長アナウンスで嘘のような船会社からの連絡を受けました。「今回のクルーズ船でお支払い頂いた料金と、船内でお買い求めになられた際の料金全てをご返却いたします」と。全額です。

〈埠頭に待機する救急車。「あぁ感染したらこれで運ばれるんだ」と思っていました〉

――船内で結構買っていましたか?

それなりに買っていました。記念写真があるんですよ。船内のスタジオで自分の葬儀用に使えるような写真も撮ってもらったしね(笑)。写真代いくらだったと思う?

――1万円ぐらいでしょうか?

そんなもんじゃないよ。船の中のあちこちでプロのカメラマンが乗客を撮ったスナップ写真やスタジオでの写真もありで、全部で20何万払いました。

――それも返ってきたわけですよね?

もちろん、もちろん。全部ただ。パーティーの時の写真とか、ダイニングで食べている時の写真とか。

――相当な額のお金が返ってきましたね。

だから、2人で船賃だけで約60万円返ってきたでしょ。買い物、写真代も含めれば100万円近く返ってきました。

――そういったお金は、保険会社が支払ったようですね。

あの船会社はこの東南アジアクルーズだけじゃなくて、世界中で運航しているわけですよね。それに、あの会社だけじゃなくて、いっぱいクルーズ船がありますから。地中海クルーズ、エーゲ海クルーズ、アドリア海クルーズ、北極圏クルーズ。どこで何が起きるか分かりません。ただ、何もない方が圧倒的に多いから、保険会社も引き受けるわけですよね。

【何に最も腹が立った?伝えたいのは「後悔のないように生きろ」】

――この一連の騒動を振り返った時に、何に1番腹が立ちましたか?

だってもう、本当は船に乗る1か月以上前に中国でコロナが発生していたわけでしょ。だから隠蔽ですよ。11月中旬か下旬。ひょっとしたら10月ぐらいに中国国内で発生していたわけですよね。それをずっと隠していたが故に、外に漏れなかった。一部漏らした人は即捕まって、牢屋に入れられた。それが先に分かっていれば、キャンセルして乗らなかったかもしれないし。

感染しちゃった人には申し訳ないけど、幸運だったのは、その時は既に寄港予定先を全て回って、堪能して、全部終わって、横浜に戻ってから監禁だったでしょ。途中で監禁されたら大変でした。鹿児島だったらまだ日本だし、香港やベトナムでもダナンだったら、都会だから病院があるかもしれないけど。

――最後にお聞きします。この騒動を経て、教訓にすべき点は何でしょうか?

防ぎようがないからね…。中国に「隠蔽体質をやめろ」って言っても、中国の隠蔽そのものが直らないから。まあせいぜい「その日その日、納得のいく生き方をしろ」と。「後悔のないように生きろ」ってことです。

※橘田先生スペシャルインタビュー第1回終了(全3回)

colour1-2 橘田正造

2025年04月17日

虹色々インタビュー

一人一色、八十億人八十億色――。地球上に存在する人の数だけ色があり、そのどれもが非常に興味深い輝きを放っています。地球同窓会では色々な人へのインタビューを通して、唯一無二の声色を発信し、世界中に虹をかけていきます。話のテーマは毎度変化!今回は…。

Colour1-2 地球社会共生学部・元教授

【#1「あの時、あの前、あの後――未知のウイルスとの遭遇から5年、船中の当事者に訊く」】

【#3「学部名の由来は?地球の長所・短所も熱く厚く掘り下げる!必読エピソード大連発!」】

長野生まれ、西宮育ち、青学大出身。世界中を飛び回った国際開発金融マンが新学部の初代教授になるまで

2015年に産声を上げた青山学院大学・地球社会共生学部は、2025年に10周年を迎えます。それを記念した特別プログラムの一環として、2015年から1期生が卒業する2019年まで教授を務めた橘田正造先生に、住居を構える藤沢でインタビューを実施しました。

20代後半でのバンコク(1977~79)を皮切りに、マニラ(1984~87)、デリー(1992~94)、パリ(2002~03)と各地で駐在員を務め、仕事で世界53か国を訪れた後、どのようにして母校の青山学院大学に戻り、地球の初代教授になったのか。生い立ちから語っていただきました。

――◆――◆――

【「世の中をちょっと甘く見ていた」高校時代】

1949年1月に、長野市の郊外で、川中島の合戦があった場所の近くで生まれました。皆さんの時代は病院で生まれるんだけど、僕らの時代はまだ母親の実家でお産婆さん、今でいう助産婦さんが取り上げていました。

父親は神戸で仕事をしていたので、生まれてすぐ、神戸に近い西宮に移りました。阪神甲子園球場のあるところです。そこで高校を卒業するまで育ちました。

高校の3年生の秋に突然、私の頭の中になかった父親の転勤がありました。既に勤務地は神戸から大阪に移ってはいたけど、大阪からどこかに行くとは思っていなかったなかでの東京転勤でした。私はたくさんの友達が進学する関西の大学に行くつもりでしたが、急に「お前東京の大学を受けろ」と言われ、それで先生に相談して、いくつか東京の大学を受けて、青山学院の経済学部に行きました。

それまでは世の中をちょっと甘く見ていて、「これぐらいやっていれば、慶應ぐらい受かるだろう」と思っていました。そんな感じで舐めてかかって受けたら駄目でしたね。当時の第1志望は国立で、第2志望が慶應、青山は第3志望でした。

周りも自分も阪神タイガースファンで、アンチ東京だから、東京の大学を受ける人はほとんどいなくて、成績上位者は京都大学など関西の国立大学に行っていました。自分はそれほど悪くない成績だったから「これくらいできれば、慶應ぐらいは受かるだろう」と思っていたけど駄目でした。それで浪人しようと思ったら、高3の時の担任が「いや、君は浪人して成功するタイプじゃない」と。自分自身がどういうタイプか僕は分からないんだけど。「受かったところに行きなさい」と言われたのをよく覚えています。

高校の時は、日本を豊かにするために商社に入って、日本の製品を売って外貨を稼ぐ仕事をしたいと考えていました。僕らの子どもの頃は、教科書に出てくる日本の統計数字はみんな先進国の中では低位で、日本が貧乏だったんです。例えば、人口1万人当たりの乗用車の台数は、アメリカやイギリス、フランス、ドイツと比べて、日本は極端に少ない。だから子供心にも「こりゃなんとかせにゃいかん」と思っていました。

〈青学大経済学部の原豊ゼミのOB会の時の写真です。当時私は早大大学院の修士課程1年目で満23才でした。真ん中の2人が原ゼミの1年上の先輩達で、左端が私と同期の男性で、オンワード樫山の社員でした。後に同社のブランド「23区」の商品化に成功して、若くして同社の副社長になったのですが、過労のためか40代前半で他界しました〉

【「これぐらいやっとけば大丈夫」からの脱却】

大学時代は2年生の夏、1968年の「プラハの春」事件がキッカケで、ソ連、東ヨーロッパ経済を勉強し始めました。社会主義の経済がなぜ停滞を始めたのか。やってみたら面白くて面白くて、「これは4年生で卒業したら中途半端だな」と。大学院に行きたくなって父親に相談したら、父親は「駄目だ。お前みたいな1人っ子の世間知らずは早く社会に出て鍛えられろ」と言うわけです。僕は諦められないから、父親と何度か話し合って、最後は母親が助太刀してくれました。

早稲田に堀江先生という、まさに僕がやりたいことを研究している先生がいて、それで早稲田の大学院を受けたんですよね。今でこそ文系で大学院に行くのは、そう珍しくないけど、僕らの時代は文系で大学院に行ったら、就職はほぼ不可でした。しかも、入試は大学卒業直前の年1回でした。受験に失敗したら就職浪人になります。「それでもお前行くのか?」と周囲に言われても、「とにかく研究したい」と。それで受けたら受かったんです。

それまでは中高大と受験して、みんな駄目でした。生まれて初めて自分でもっと勉強したくなって受験したら、早稲田の大学院に受かったんです。倍率は3倍でした。大学院に行ったらまたまた面白くなっちゃって。もうちょっと勉強して、博士課程に行こうかとも思ったんだけど、父親と「大学院は修士の2年だけ」と約束していたので、就職することにしました。国際貢献の仕事を探しました。

今でこそ、JICAとかがあるけど、当時はほとんどなくて、開発途上国に対する資金協力の政府機関がありました。低利で長期返済のローンを出して、インフラを整えたり、農村開発をしたりして、返してもらって、それをまた他の国に貸したりする。円で貸して、円で返してもらう。円借款をやっている組織があるのを知って、創立後まだ10年目ぐらいだったんだけど、駄目元で受けました。倍率は25倍。125人受験して、合格者は5人でした。受かると思っていなかったんだけど、受かっちゃいました。

だから自分で見つけた好きな分野の勉強を始めたら大学院に受かり、真剣に国際貢献の仕事をしたいと思って受けたらまた受かり。意識の差は本当に大きいと思います。高校生までは何となく「これぐらいやっとけば大丈夫だ」と甘く考えて受けて、みんな駄目でした。

【「逃げない勇気」で世界を股にかける】

職場で周りを見れば、東京大学、京都大学、一橋などの国立大出身者達がゴロゴロいるわけです。私学出身者は少なかったです。でも私は委縮しませんでした。なぜかというと、大学時代が学園紛争の時代で、そのおかげもあって西洋哲学、東洋哲学を人一倍学び、「何のために生きるか」「どうやって自分は生きたらいいか」の核みたいなものを持ち得ていたからです。

かつ、職場では、できる人ばっかりで、こっちは謙虚だから色んなものを学べるわけです。そうこうするうちに、20代後半でバンコクに駐在を命じられました。

バンコクから帰ってきて5年経ったら、人事課長から突然呼ばれて、「アジア開発銀行に1つポストがある。今度面接を受けろ」と言われました。でも前々から、世界銀行とアジア開発銀行で勤務して帰ってきた先輩達から「とにかく競争が激しくて、よっぽど心臓が強くないと務まらない」と聞いていたので、「希望も出してないし、心臓も強くないので、私は向いてないと思います」と言ったら、人事課長から「断ると思ってないので、よく考えろ」と。それで週末考えて、「やっぱりここは逃げちゃいけない」と。皆さんにも卒業の時に「辛いことから逃げない勇気」を喋ったじゃないですか。その逃げない勇気を発揮して週明けに「受けます」って受けたら、第1次面接(東京)と第2次面接(マニラ本店)に受かったんです。

僕は留学してないわけですね。アジア開発銀行にいた約4年近くの経験がその後の自分をめちゃくちゃ支えていたと分かるんですよ。アジア開発銀行はアジアの人も多いけど、専門スタッフには主要出資国のヨーロッパやアメリカの人が過半数いて、そういう人達と喧々諤々とやるわけです。しかも給与面でも駄目な奴はベースアップ0とか、辞めてゆくとか。そういう中で生き延びて、給与レベルを毎年上げているうちに、対外国人が怖くなくなって、英語ももちろんそうです。その経験は自分をものすごく強くしました。それがマニラでの話です。

帰ってきて、また5年経ったら、「今度はインドに行け」と。その時にインドの担当課長をしていたんですけど、ちょうどインドが1991年に経済改革を行って、それまでずっと社会主義で来ていたけど、1991年の湾岸戦争を契機に、独立以来最大の経済危機となり、市場経済化を始めたタイミングでした。担当課長としてインドに対する緊急支援の円借款をまとめたりして、それでインドに赴任して、本格的に数多くのインド官僚達と関わって、それでまたインド人を説き伏せる肝と能力が身に付きました。インド人には結構驚かれましたね。

〈90~92年は東京でインドを含む南西アジア担当課長、92~94年はインド事務所所長を務めました。当時の組織名は海外経済協力基金(OECF)。61年創設で円借款を専門に担当していた政府機関です。その後99年から国際協力銀行(JBIC)に、更に2008年から国際協力機構(JICA)に組織統合になりました。写真は2018年夏のゼミのインド研修で、元デリー事務所スタッフの2人と会った時です〉

そういう経験をして帰国して、南アジアや中東辺りの担当部長をやった後に突然、「本部で円借款業務全般を統括する部長をやれ」と言われ、国会やら色々あってヘトヘトでした。

そうしたなか2002年のある日、役員から役員室に呼ばれて行ったら、「君、2か月後からパリに行ってもらう」と言われたんです。それは2002年の初夏で、当時はミレニアムデベロップメントゴールズ、MDGsで世界中がアフリカをどうするかを考えていた時でした。

「君にはアフリカ全域を担当してもらう」と。フランスの元植民地がアフリカにいっぱいあり、フランス語圏の情報が集まるので、「世界銀行もOECD(経済協力開発機構)もアフリカにますます注力する。だからパリにいて、パリからアフリカ中を回ってほしい。日本として今後どうやったら円借款でアフリカの支援ができるか考えてほしい」と言われました。結局1年3か月しかいませんでしたが、その間に1番貧しいエリアのサブサハラアフリカ13か国を回りました。宿題の対アフリカ支援スキームは、帰国時に日本政府に私案が採用され、G7でも公表され、20年後の今も運用されています。

【「よくあるパターン」で念願の“本ちゃん”へ】

その後、2005年の9月に国際協力銀行(JBIC)を退職しました。最後は同銀行の開発金融研究所の所長でした。実はその退職1か月前に突然ある知人から電話がかかってきていたんです。相手はアジア開発銀行で時期がちょっと被っていた人で、横浜国大の大学院の研究科長になっていました。その人から「橘田さん、客員教授で科目担当をやってくれないか」と言われて、「いいですよ」と引き受けました。

なんですぐに客員教授ができたかというと、インドから帰ってきた翌年の1995年秋に、青学の経済学部でゼミの先生だった原教授から「橘田君、1度講義してくれないか」と言われて、9号館の大教室で、日本の開発援助について話をしたことがあったんです。

講義後に先生から「橘田君、お昼空いてますか?」って誘われて。青山キャンパス近くの高そうなレストランに案内されて、そこにいた経済学部のたくさんの教授達から色んなことを聞かれました。それからしばらく経ったら原教授から電話がかかってきて「君、面接に合格したから、来年1996年度から青学で非常勤をやってくれないか?」と言われ、各国経済論をやりました。ウィークデイでは忙しくてできなくて、土曜日に昼間部・夜間部合同の科目を担当しました。

原先生からは「君は大学を卒業する前から『第1の人生を退職したら大学の先生をやりたい』って言ってたじゃないか」と言われたのですが、大卒前から本当にそう思っていたんです。なぜ思っていたかというと、ここ大事なんだけど、自分が大学で勉強して人生で初めて学ぶことの面白さを知ったんです。それと同時に、色んな哲学や思想史などを勉強して精神力が強くなったんですよ。自分はどうしたら生きていけるか、「核」を持ったんです。大学の時に、強く生きる術を発見するキッカケを与えてもらうことが重要なんです。そのキッカケを与えられるような仕事ができたらいいなと思って、第2の人生で大学に行きたいと思ったんです。

それで1996年から青学大で非常勤講師をやっていて、10年目の2005年に「横浜国大の大学院で客員教授をやってくれないか」と言われたんです。既に私は1年間分の講義のネタがあるから、「いいですよ」と引き受けて、横浜国大の大学院で教え始めました。でも客員教授って非常勤と基本的に変わらないんですよ。フルタイムの“本ちゃん”じゃないんですよ。

「フルタイムでやりたいな」と思っていたなかで、私の専門分野で4つぐらい大学の公募があって、国立大や私大を受けたのですが、駄目でした。「なんで駄目なんですかね?」って知人のある先生に聞いたら、「だって橘田さん、もうすぐ60歳じゃないですか。しかも留学してないし、博士号を持ってないでしょ」って言われて、「そうか駄目か」と。

そうこうするうちに、筑波大学の募集の情報が来て、これが駄目だったらもう諦めようと思って受けたら、受かったんです。

それで筑波大学で、教授に加えて、筑波大学の国際化をさらに進める新設の国際部の部長も兼任する教授の仕事を始めました。でも筑波大学は、生徒は良いんだけど、私の住居がある藤沢からは遠い。大学の宿舎を与えられたんだけど、年長者にはやっぱりしんどいわけです。

そんななか、筑波大3年目のある日、同大学のある先生が「青学の大学院で、2011年春から社会人留学生を受け入れる英語だけの修士プログラムを始めるので、先生を募集している」と教えてくれました。自分は筑波大学で、社会人留学生の修士プログラムで教えていたし、学部でも英語で教える科目も担当していたので、募集の情報を教えてくれた先生が「推薦するので受けませんか」って。その時、ちょうど筑波大の国際部長の仕事のきりも良かったし、青学は母校なので、「はい」と言って青学に応募したのが2011年の3月です。

〈地球社会共生学部開設後も、毎週金曜に青山キャンパスで大学院の社会人留学生(全員が途上国の政府職員達)への授業を担当していた頃です〉

【当時学長の仙波先生から電話が!「クビかな?」ドキドキして会いに行ったら…】

それから2年後の2013年の春、大学院の特任教授3年目の時です。突然、当時学長を務めていた仙波先生の学長秘書から電話がかかってきて、「学長がお会いしたいと言っています。ご都合の良い時間に」って。こっちはぺいぺいの特任教授でしょ。会ったこともない学長の秘書から電話がかかってきて、いきなり「学長が会いたいと言っています」って言うから、クビかな?「もうそろそろ、やめていただきたい」って言われると思ったわけです(笑)。

歳も歳だし。2013年だから64歳。恐る恐る学長室へ行ったら、仙波先生と平澤先生がおられて、そこで仙波先生が「今度、相模原キャンパスに社会科学系の新しい学部を作ります。グローバルに活躍できる学生を育てたい。いずれは留学生も呼びたい。橘田先生は筑波大学で国際部長をされて、筑波大学の国際化推進の仕事をされたと聞いています。開設準備委員会を作るので、そのメンバーになってもらえませんか」と言われて。こっちはもうクビじゃなくてホッとしたこともあり(笑)、「そういうことでお役に立つのであれば、是非やらせてください」と言って、お引き受けしました。

それで1年半ほど経って、2014年のある日、平澤先生が「文科省から許可が降りました。これから2015年4月入学の学生を募集します。ついては、2015年の4月から開設準備委員会の先生は淵野辺に移っていただいて、そこで教員になっていただきます」と。それで2015年の4月に向けて、色んな準備でタイの大学に行ったり、マレーシアの大学に行きました。

〈地球社会共生学部に移る前(青学大の大学院経営学研究科の特任教授)の2014年頃です。この期では私のゼミで修論指導した3人のうち、ケニアからの院生が翌年の修了式で研究科でトップの総代に選ばれました。指導教員としても大変誇らしかったです〉

※橘田先生スペシャルインタビュー第2回終了(全3回)

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